造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
 またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317−7]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
 川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作
前へ 次へ
全311ページ中236ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング