ふことは、常識的にみて不審の一つである。長崎談判以來、大きな外交事件には引續き拔擢されて參加してゐるから、語學や通辯力量に劣つてゐたとも思はれないが、そのへんに長崎通詞一般とちがつた、どつか己れの科學的才能と共に思ひをひそめた一克なところがあつたのではなからうか。
 安政元年十一月以來、つまり下田談判の中途から、彼はロシヤ人と共に伊豆の戸田村にゐたことが、「古文書幕末外交關係書卷ノ八」の記録によつてわかる。「昨十四日豆州戸田村到着仕候處――魯西亞使節私共着之趣承り急き面會仕度段、通詞本木昌造を以て申越候に付、直に使節罷在候寶泉寺へ御普譜役[#「御普譜役」はママ]御小人目付等引連れ罷越及面會――」云々。これは翌年二月十五日付で、ロシヤ應接係の一人、勘定組頭中村爲彌から川路宛の上申書の一節であるが、ロシヤ人たちは戸田村海岸で船をつくつてゐたのである。前年十一月四日の海嘯と、宮島沖でのフレガツト沈沒などで、ロシヤ使節は數百名の乘組員を歸國させるのに船が足りないでゐた。アメリカ捕鯨船を借用したりしたが、その間捕鯨船乘組のアメリカ人たちを上陸させ、待たせておく場所が困難で、幕府役人との間に起つた
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