から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、記録に殘つてゐなくても、當時の海防係を援けていろいろと活動したことは疑ひないところである。
川路は力量才幹ある政治家であつた。ペルリ以上の人物と謂はれるプーチヤチンと太刀打の出來る外交家は、當時の幕閣において、川路をのぞけば他になかつたらうとさへ、今日の歴史家は云つてゐる。プーチヤチンもまた前二囘のロシヤ遣日使節にくらべて出色の人物であつた。當時のプーチヤチンの立場はまつたく四面重圍のなかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸までに及んでゐた。英佛の艦隊はプーチヤチンの「デイヤナ號」および乘組の兵員を捕獲しようと、安政二年の三月五日と十一日には、佛艦「ポーテアン」が大砲六門をならべて、下田沖合に出現したし、同じ十二日には、箱館に三隻の英艦があらはれて、大砲四十門をならべて、プーチヤチンの歸航を待ち伏せてゐた。故國を離れてすでに多年萬里の異境にあつて、しかも彼はそこでも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを
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