發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議
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