は、ペルリの黒船がこんどは七隻で江戸灣に入つてきた。舞臺はたちまち長崎から江戸へと擴がつたのであるが、昌造にとつてこの「安政の開港」は、生涯の大事だつたと思はれる。わが日本にとつても開闢以來の大外交であつたが、昌造にとつても、まだ固い蕾が思ひきり雨をあびたやうなものである。長崎に住んで、外國人と接するなどめづらしくはないが、ヨーロツパを相手に國と國との折衝といふ大舞臺は、通詞職としても前代未聞のことであつた。
これを年次的に述べると、ロシヤ使節一行の軍艦「パルラダ」以下三隻が、機微な交渉のうちに再渡を約して長崎港から退帆したのが安政元年の正月五日。アメリカの使節ペルリ一行が、江戸灣内に再渡來したのが同じ正月の十四日。そして強引に修好條約を締結して下田港を去つたのが同じ六月の二十八日。同じ九月の十八日にはまたロシヤ使節の船が大阪安治川尻にあらはれて、幕府の諭書によつて十月下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航。以來翌年三月までかかつてペルリと同じ日露修好條約を締結して歸國。すると同じ安政二年の七月にはイギリス軍艦が長崎へ入港、當時はクリミヤ戰爭の最中で、歸國途次のロシヤ使節
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