ふことにもなる。
私は友人知人の助をかりて、洋學の傳統とか、幕末の事情と長崎通詞の關係などを知らうと努めた。また江戸末期の印刷についてくはしく知らうと努力したが、どちらを向いても初心の私には茫洋としてゐて、昌造のイメーヂはさつぱりうかんでこぬうちに、昭和十六年は過ぎ去り、十七年も春になつてしまつたのである。
ある日、私は日本橋のSビルの一室にある「印刷雜誌」社を訪ねた。そこには三谷氏の生前からの希望で、氏が昌造について蒐集したものが、「印刷博物館」に納めるために引きとられてあつた。私はその蒐集品のうち、昌造の著書「新塾餘談」の第三篇を見たかつたからである。「詳傳」によれば、昌造には「蘭話通辯」のほか「海軍蒸氣機關學稿本」「デースクルフ・デル・ユトームシケーベン抄譯稿本」「英和對譯商用便覽」「物理學」「祕事新書」「保建大記」「數學品題」「新塾餘談」「西洋古史略」等の著譯書があるが、それらは今日散逸してゐて、所在の知れたものでも何某所藏となつてをり、何某の所番地もわからない。わづかに三谷氏蒐集の分だけが私には可能な手がかりであるが、せめて著書の一端からでも昌造の意見なり考へ方なりを窺はうと思つたからであつた。
印刷雜誌のM・T氏は、私の持參した三谷未亡人の紹介状をみて、快く承諾し、給仕に命じて、室の隅から大きな柳行李を持ちださしてくれた。三谷氏の蒐集品は、まだ印刷博物館が出來あがつてをらず、保管してくれる篤志な有力者への引渡しも濟んでゐないので、自由にみる譯にはゆかなかつた。
「新塾餘談」第三篇は、上下二册になつてゐて、樺色表紙の薄い和綴の本である。明治四年の發行で、四號くらゐの鉛活字で印刷されてあつたが、披げてゆくうち私は失望してしまつた。ある航海日誌であつて、昌造の著書でないことは昌造自身の序文で明らかにしてある。推測するところ萬延元年アメリカへ日本使節として行つた木村攝津守、勝麟太郎一行のうちの誰かの日誌らしいが、途中マニラに寄港したことや、大統領に歡待されることなどが出てくる。殊に港々で水何千ガロンを買入れるとか、風速とか、温度とかが最も熱心に書き入れてあつた。昌造の序文も至極かんたんで、自製するところの鉛活字によつて出版するが、これは友人茗邨君が送つてくれた航海日誌である。夷狄の風物も面白く、航海の實際も讀者を裨益するところ尠くないと思ふから一讀を乞ふといふ程のことである。
「茗邨君といふのは誰でせう?」
M・T氏に訊いてみた。木村、勝の一行は時の海軍練習生が大部分であらうと思はれるが、昌造の友人とすれば或は長崎通詞で隨行した人かも知れない。M・T氏も小首を傾げて「さあ」と云つた。
「K・H氏に訊いたらわかるか知れませんネ。」
私はK・H氏を知らなかつた。
「紹介してもいいですよ、ほかの著書も蒐めてゐるか知れない。三谷氏が亡くなつたから本木研究ではこの人が一ばんでせう。」
M・T氏は卓の上に名刺をおいて、紹介を書き始めたが、ふと顏をあげると笑つて云つた。
「尤もK・H氏は三谷氏とは論敵ですがネ、つまり三谷氏は本木説、K・H氏は大鳥説と云つたぐあひですな。」
どちらに加擔するでもない風に、M・T氏は笑ひ聲をあげたが、そんなに前提するところをみれば、私を三谷派とみたらしい。
しかし私は專門家同志の論爭に對して、かかづらふ程の知識も資格もないので、M・T氏から紹介名刺をもらつて、そこを出たが、心ではこの「活字の元祖爭ひ」はあまりに明らかであると思つてゐた。大鳥圭介が幕府開成所版に錺屋につくらせた鉛活字を用ひたことは、印刷史上特筆すべき功勞にちがひないが、私も某所でみた大鳥の「斯氏築城典刑」の實物は、字形が夫々異つてゐて彫刻に違ひないと思はれた。近代活字の重要さは、電胎法による字母が完成したことにあるので、本木だけがそれをやつたのだと思つてゐた。それに今一つは、ある書物で「大鳥圭介傳」の孫引から讀んだ字句が私には氣にくはなかつたのである。「――蘭書に基き、その鑄造法を種々研究して、遂に兩書の出版に手製の活字を使用したことがあつた。我邦における活字の開祖としいへば、世人長崎の平野富治を推すも、此は西洋の機械を初めて輸入して製作したるものにして、予が在來の錺屋に命じて鐵砲玉を作るが如くにして作りたるとは、その難易同日の論にあらず、而して予の製作は平野に先つこと數年なれば、日本に於ける活字の元祖は斯く申す大鳥ならんと云ひしことありとぞ――」
平野は本木の門下であり協力者であつて、彼が昌造の活字を船につんで東京へ賣捌きに出たのは明治四年の夏のことであるから、大鳥の言を傳記筆者の儘に信ずるとすると、この言葉も明治四年以後であることは明らかで、嘉永元年以後二十餘年に亙る本木の失敗苦心とその存在を知らなかつた譯である。當時の
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