も同じ氣持であつた。
しかしその翌日、同じ時刻に病院へ二人でゆくと、三谷氏の容態は昨日とまるでちがつてゐた。ベツドの上にかがまつてゐる醫師や看護婦のただならぬ後ろ姿が見え、細君も幾度か二人の姿を眼にいれながら、よくは視覺にうつらぬといつた風の容子であつた。
しばらく廊下にたちつくしてゐる間にも、看護婦などの出入りがあわただしい。二人でけふは歸つた方がいいかも知れぬなどと話しあつたが、そのうち細君の顏がフイに入口からのぞいて手招きするのだつた。それはすこし怒つたやうな顏色で、私がそばへ寄ると、手に持つてゐる新聞包みをおしつけてから、短い聲で、
「ちよツと顏をみせてやつてください、ちよツと――」
と、叫ぶやうに云つて、くるツとむかふむきになつて、袂で顏をかくしてしまつた。
醫者はまだそこにゐた。衝立のそばまでゆくと、肉親の人らしい女の背中が少しどいて、そこから白いガーゼで胸から蔽つた三谷氏が見え、顏だけがあふのきにこつちを迎へてゐた。一と晩のうちにすつかり形相が變つてゐたが、くせのある唇許には、わりあひ元氣な微笑がただよつてゐる。
「や、ありがたう――」
例の右掌がガーゼの間からうごいた。まだ唇がうごいてゐるが、よくききとれない。私がわからぬままにうなづいてみせると、ニツコリして、さも疲れたといふ風にむかふむきになつてしまつた。――
夕方になつて私達は、新聞包みを抱へて病院を出たが、五反田驛まできてもすぐには電車に乘れない氣がして、驛前の喫茶店に入ると、その新聞包みをあけてみた。みんな粗末な裝幀で、一册は「本木昌造、平野富二詳傳」他の二册は「活字高低の研究」「植字能率増進法」であつたが、「本木昌造、平野富二詳傳」の方は、表紙に「再版原稿」と墨書してあつて、いろんな書込みや、貼込みがしてある。三谷氏は初版後さらに研究をかさねて、訂正増補版を出す心算であつたらう。
「偶然だナ、まるで遺言をききに行つたやうなもんだ。」
若いH君はしきりと昂奮して、コーヒーに口もつけず繰り返してゐた。私はめくりながら序文など讀んでゐたが、本木傳は福地源一郎の原文を主にして、その傍に「編者曰く」とか「補」とか「註」とかいふ形で三谷氏の文章がならんでゐる。福地の原文は私が他の著書で讀んだ本木傳と大同小異であつて、その「編者曰く」や「補」や「註」が新らしいものだつた。それは氏が長崎や福岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得たこと、或は寺社や舊幕時代から、土地に殘つてゐる文章などから探しだした貴重なものだつた。
「偶然だナ、まつたく偶然だ。」
H君はまだ云つてゐた。なるほど私と三谷氏との邂逅も偶然だつたが、本木傳に關心をもつて寄り集つたのが、三人とも印刷工だつたといふことも偶然だつた。
「あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。」
「さうだネ。」
私もボンヤリと天井をみあげながらこたへた。本木昌造を書くことは日本の印刷術を、日本の活字を書くことだ。そしていま死の迫つてゐる三谷氏のことを思ひ合せると、それを書く自分らの仕事が、次第に偶然ではない氣がしてくるのであつた。
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サツマ辭書
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一
三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばならぬ。
私は繰り返しその書物を讀んだ。主文は福地源一郎が書いたもので、明治二十四年發行の「印刷雜誌」に掲載されたものである。源一郎は櫻痴と號し、天保十二年長崎の生れ、やはり和蘭通詞の出身で、昌造とは十七年の後輩であるが、安政五年には十八歳で軍艦頭取矢田堀景藏について咸臨丸に乘り組んだことがあり、萬延元年二十歳では竹内下野守に隨つて歐洲へ使したこともある。非常に若くから活動したので、昌造とはいはば同時代的な期間もあつたに違ひなく、また同じ長崎通詞のうちでも航海や造船術の先覺でもあつた昌造に對しては私淑するところあつたかに思はれる。今日印刷歴史書やその他で本木について書かれる傳記的文章は、主としてこれから出てゐると謂はれるが、それは五百字詰の用紙にすると二十枚足らずであらうか。
三谷氏がこの書物に「詳傳」とつけたのは、その福地の主文に「補遺」とか「註」とかの形でほぼ同じながさの、自身で行脚、探索した事蹟や聽き書きを附加へたことに因るのであらう。たしか私の讀んだ範圍では、昌造についてこれより詳細なものを他に知らないが、また一方からいふと、本木についてはまだこの程度しか書かれたものがないとい
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