だつた。ロシヤもアメリカも始めての渡來ではないが、こんどは軍事的にも文化的にもまるで趣きを異にしてゐた。田保橋潔氏の「幕末外國關係史」に據ると、たとへばペルリは浦賀沖に出現する以前、五月中旬に小笠原父島二見港にあがつて海軍基地を作り、浦賀を退出するや、七月には琉球那覇港に上陸して、ここでも海軍基地を作つてゐた。「――世界の形勢如何に推移するや全く無關心なる――日本國政府と交渉するに當り――若干の避泊港を日本沿岸に指定するが如き、最も機に應じたる手段といふべし。同國政府にして、若し日本本土の港灣開放を頑強に拒絶し、爲に流血の慘を見るの危險ある時は、別に日本の南部地方に於て、良港を有し、薪水補給に便なる島嶼に艦隊錨地を指定せんとす。是がため琉球諸島最も便なり」と、ペルリは東印度艦隊を率ゐてマデイラ諸島を出發するとき、海軍長官宛に上申書を書いて傲語したのである。「――海上に於ける合衆國の大競爭者たる英國の東洋に於ける領土は日に増大するを見るも、合衆國亦敏速なる手段を執るの必要あるは痛切に感ずる所なり。英國は既にシンガーポール、香港の支那海に於ける二大關門を手中に收め――支那貿易を獨占せんとす。幸ひにして日本諸島は未だ「併呑」政府の手を染むる所ならず、而して其若干は合衆國のために最も重要なる商業通路に當れるを以て、なるべく多數の港灣を獲得するの機を逸せざるやう、敏活の手段を執るの要あり、本職の有力なる艦隊を引率するも是その一理由たり。――」
「併呑」政府とは英國の渾名である。しかもペルリが浦賀沖に出現したころには、ロシヤの第三囘遣日使節が旗艦「パルラダ」以下三隻を率ゐて、支那香港に待機してゐたのである。プーチヤチン提督の方針は、ペルリほどには高壓的でないことが、今日のこつてゐる記録にみても明らかであるが、從來のロシヤ遣日使節とはずゐぶんちがつてゐる。つまりは彼も「通商嘆願」ではなくて「開國要求」であつた。
「日本渡航記」の一節は、當時プーチヤチン一行の氣持を代表して次のやうに云つてゐる。
「――八月九日、例の通り晴朗だが、惜しいかな暑すぎる氣候であつた。この日私達は「謎の國」を初めて見たのである。――今ぞ遂に十ヶ月に亙る航海、苦勞の目的を達するのだ。これぞ閉めたまま鍵を失くした玉手箱だ。これぞ金力と武力と奸策とをつかつて、これまで無駄骨折つて手なづけようと各國が覗つてきた國である。これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と自己の法規によつて敢て生きんとしてきた人類の大集團である。外國人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この國を教化せんとする我々の企圖を嘲笑し――てゐる國である。
 いつまでもさうして居られようか? と我々は六十斤砲を撫して云ふのであつた。日本人がせめて入國を許し天賦の富の調査を許してくれたらよいのだ。地球上で人間の棲息する各地方の地球や統計のうちで、殆んど唯一の空欄となつてゐるのは日本ばかりではないか。――」
「八月九日」は陰暦の七月十五日であるが、この文章は當時のヨーロツパ人の不遜な感情を語つてあますところがない。一はヨーロツパ文化の發展と確信である。一はヨーロツパ以外のすべてを植民地視するところの侵略的な無遠慮さである。それが渾然一體となつて、ゴンチヤロフほどの大作家も「六十斤砲」と結びつかねばならぬ歴史であつた。
 十八世紀の中期以後、英國を先頭とする産業革命は、いまや一世紀を經て、全歐洲が完了に近づきつつあつた。紡績機械の發明と、火力による動力機の發見は、汽車や汽船はもちろんのこと、いろんな生産品を地球の西方から溢れださせて、それらは地球の東方に、その隅々に至るまで市場を、捌け口をつくらねばならない。各國の艦隊はその觸角となつて、紅海、印度洋、北から南に至る全太平洋、南洋諸島から支那大陸、はては極東「謎の國」「鍵を失くした玉手箱」の國に至る海とを縱横に驅けめぐらねばならなかつた。ペルリのいふ「大競爭」である。ロシヤも遲ればせながらフランスと共にヨーロツパ産業文明の一員であつた。第二囘の遣日使節レザノフのやうに、アラスカやカムチヤツカの沿岸で捕へた獵虎の皮を剥いで、日本をそのお客さんにしようとした「露米會社」時代とはわけがちがふのである。十八世紀の終りには英國よりも早く北支那の一角に市場を獲得してゐたロシヤである。「飛び石」の一つは既に出來てゐた。ペルリと同じく「併呑」政府が手を染めぬうちに、たとひ「六十斤砲」をぶつ放してでも「處女日本」を手にいれねばならなかつたであらう。
 プーチヤチン一行が香港を出發したのは嘉永六年の六月一日、颱風の中を一路東支那海を東上して小笠原島二見港についたのが同じ六月二十八日、長崎沖にあらはれたのが七月十五日である。從來のロシヤ遣日使節はクロンシユタツトを出てから太平洋を北上し、
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