玄澤ら、また長崎を訪れた。しかし彼等はすべて自分のものとしたのだ。
そして私の主人公本木昌造はどうであらう。彼は傳統ある家に人となり、前記した通詞の一般的性格のうちに育つた。彼の生涯は幕末の混亂期から明治維新後の文明開化期までをつらぬき、迂餘曲折をきはめてゐる。あるときは日露談判の通辯となり、あるときは、幕府の軍艦の機關長として、長州兵と戰ふかと思へば、あるときは姉公路卿を載せた汽船の長となつて、無事勤皇の大役を果したり、またあるときは八丈島に難破したり、長年月を獄に下つたりする。そしてただ一つ活字だけが二十數年後に完成するのだが、このジグザグな彼の生涯のうちに、通詞の一般的性格をどれだけ、そしてどういふ風に超えただらうか。
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よせくる波
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一
私はむかしの長崎繪圖を都合三枚みることができた。最初の一枚は帝國圖書館でみたもので、安永七年の作である。あとの二枚は友人Kの蒐集したもので、Kの鑑定によると、一枚は天保年間とおぼしきもの、いま一枚は慶應二年頃と判斷されるものである。
安永の墨一色の「長崎之圖」は、大畠文治右衞門といふ人の作で、可なり精細である。町の中央をやや左寄りに二股川が流れ、その上流は二つの支流にわかれてゐる。左の支流は、後年シーボルトが長崎奉行の肝煎りで新知識普及の道場とした鳴瀧に源を發してをり、そのほとんど近くに昌造の生地新大工町がある。二股川はその下手で右からくる支流をあはせて、まつすぐに海へそそぐのであるが、河口の左側突端に「唐人屋舖」があり、河口の右手にもつと大きな扇型の島がある。これがいはゆる「出島」であり、「和蘭商館」のあるところである。この圖でみると、出島は帽子の玉飾りのやうで、帽子にあたるところ、つまり出島と橋一つでつないだ、やや圓型の突端に長崎奉行所がひかへ、その裾を八の字にひらいた長崎の町々の、港を中心に繁榮してゐるさまが描かれてある。海にむかつて、奉行所の右手海岸はとほく弧をゑがきながら肥後、筑前、佐賀、平戸、諫早、柳川などの各領主、當時日本の入口を護る年番諸侯の屋形所在地がつづいてゐる。
私は興味をもつて港の沖合にかかる船々の繪をみた。大小さまざまの船がある。オランダ船、シヤム船、ナンキン船――。私は船について全く知識がないから判斷のし
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