ゐるといふ)のは五十八歳のときであつた。全篇七卷三百二十五章、外に附録一卷といふのだから、よほどの大仕事である。寛政三年十一月に始めて同五年九月に終つてゐるが、この譯著が成ると數ヶ月で死んでゐるから、恐らく命とりの仕事だつたと考へられる。四世庄左衞門の碑文に「奉命譯書、時維嚴冬、自灌冷水、裸體素跣、詣于諏訪神社、祷卒其業、人或諫曰、子既老矣、何自苦之劇、曰自先世、以譯司、食公祿、以斯致死、即吾分而已」と誌してゐるさうだが、恐らく良永の面目を傳へたものであらう。
 四世庄左衞門は良永の嫡男で、正榮と諱した。三谷氏家系圖では安永七年生れ、文化十年三十六歳で死んでゐるが、洋學年表では文政五年物故蘭學者の欄に庄左衞門の名が出てをり(長崎大光寺、享年五十六)とある。これでみれば死歿の年に相違があるばかりでなく、生年も安永七年でなく明和五年となつてくる。從つて三谷説によると、良永歿年に庄左衞門は十七歳であるが、後者では二十七歳となるし、しかも後者はその説を裏書するやうに、寛政六年の項に「大通詞本木仁太夫死し子元吉嗣ぐ、小通詞なり、庄左衞門と改め正榮と名乘る」とあるから、小通詞とすればよもや十七歳ではないだらう。前記したやうに新撰洋學年表の著者如電の祖父玄澤は、書中にもみえるやうに庄左衞門の友人だし、私は後者を信じたい。それに證據の一つとしてヅーフの「日本囘想録」には一八一七年、文化十年まで庄左衞門健在の事實が記録されてゐるからだ。一八一七年は甲比丹ヅーフが日本滯留十九年で、バタビヤへ引きあげた年である。しかもこの記録たるや、後にみるやうに庄左衞門の存在は、和蘭商館長ヅーフにとつては忘れがたい敵役であるし、彼が※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々の思ひで日本を退散しなければならぬ動因ともなつてゐるからである。
 本木四世庄左衞門は、のち大通詞に進み文政二年には名村八右衞門と共に、「總通詞教授」を命ぜられてゐる。何の教授であるか誌されてゐないが、庄左衞門は蘭語の他に佛蘭西語を習得してをり、殊に英語において先達であるから、たぶんそれらの教授と思はれる。庄左衞門の著書のうちでも記憶さるべきものは、文化八年二月の「諳厄利亞興學小筌」(英語小辭典のこと)及び同年九月、楢林、吉雄と共につくつた「英吉利言語集成」等であつて、恐らく日本における英語の歴史上特筆されるものと思ふ。「英吉利言
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