いといふ特許を得たといふことであらう。衆説によれば當時洋書を讀むことは一般に禁ぜられてをり、この頃江戸で青木文藏(昆陽)等が運動して、吉宗將軍をして「洋書解禁」の令を出さしめたといふのが、杉田玄白らの「蘭學事始」に謂ふところと併せて有名な出來事となつてゐるが、これについて板澤武雄氏は「蘭學の發達」の中で次のやうに反駁してゐる。「――八代將軍吉宗の時に至り、通詞西善三郎、吉雄幸右衞門、本木仁太夫から右の有樣を申立て、横文字を習ひ、蘭書を讀むことの免許を幕府へ願ひ出で――許可せられたといふ。――右の説が長い間そのまま信ぜられてゐたが、延享二年といへば日蘭兩國人の接觸が始まつてから百四十餘年を經てゐる。この間――貿易の實務に當つてゐた通詞が、横文字一つ讀めないでその職責を果し得たであらうとは常識からしても考へ得られないことで、蘭學事始の所傳の信じ難いことは古賀十二郎氏も「長崎と海外文化」に於て夙く指摘せられてゐるのである」云々。
素人の私にこの板澤説と洋學年表説のいづれと判斷する力はない。しかし一世庄太夫にして「和蘭全躯内外分合圖」(これは孫二代仁太夫によつて出版されたが)の著書があるのにみても私は板澤説に加擔したい。ましてや三谷氏の本木傳にみる、青木昆陽が長崎を訪れて良固らと洋書解禁のことを圖つた云々は、素人の私も信じないところである。しかしながら板澤氏自身も同書で認めてゐるやうに、當時の和蘭通詞らがいかに蘭文學に暗かつたか、例へば、切支丹本の密輸さへ書物を見ながら指摘し得なかつたと與げてゐるごとくであるし、「日本囘想録」による甲比丹ヅーフの通詞らの蘭語に對する所見もまた同樣である。
つまり私の信じたいことはかうである。西、吉雄、本木の蘭書讀譯の免許云々は洋學年表説の如くではなかつたか知れぬ。しかし當時の通詞らの蘭文學への暗さは、後に見るやうに通詞制度が産んだ卑屈な一般的性格にも由來する向學心の乏しさにもあらうし、洋書禁制ではなかつたにしても、口辯の通譯を以て足れりとする、「鼻紙に片假名で發音を書きとつた」といふ式の通譯で足れりとしたもののうちには、單に通詞らの卑屈さのみでなく、それをよしとするところの幕府の方針といつたものがあつたのではなからうか? もちろんそれは通詞といふ職制度と一見矛盾する。しかし家光鎖國の方針と貿易とが矛盾するやうに、そこに確然たる禁制の掟は
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