て外國語を習得したのだらうか? 仔細のことは私にわからぬが、前掲書には「庄太夫、本姓林氏、世々松浦侯に仕へ、少より和蘭館に出入して其言語に通ず」とある。つまり外國人に接してゐるうち、口うつしに發音だけをおぼえていつたのだらう。從つて長ずるには一種の記憶力といつた才能が必要なわけで、庄太夫は秀でた資質があつたらしい。ただここで腑に落ちぬ點は、和蘭商館が平戸から長崎出島に移轉したのは寛永十八年のことであつて、庄太夫移住の萬治二年を距つること十七年前だといふことである。だから「幼より和蘭館に出入し」といふのは、庄太夫十九歳以前のこととなる。同じ肥前であつても平戸と出島は、當時の交通からみてはよほどの距離であるし、移轉後の商館にちよいちよい出入は出來まいと思はれる。しかもまた庄太夫が通詞として召抱へられたのは寛文四年と、板澤武雄氏「蘭學の發達」にはみえてゐるから、移住後萬治二年から五年後に屬する。してみると庄太夫は、その管轄領主であつた松浦侯に仕へながら、長崎移住後も何らか和蘭商館に關係ある役柄でも勤めてゐたのだらうか?
 いづれにしろ蘭語について、たとひ口眞似だけの理解にしろ、才能をもつた人物は當時珍重されたのにちがひない。周知のごとく將軍家光は切支丹禁制の施政を強化するために、平戸にあつたポルトガル、支那、和蘭等の商館を、長崎港の沖合に島を築いて、そこへすべてを收容したが、一方、貿易事業は日を逐うて旺んになつていつたし、フオン・シーボルトの「日本交通貿易史」によると、「此時(一六七一年、寛文十一年)は、イムホツフ總督(東印度會社の支配權を握る蘭印總督のこと)が、日本における和蘭貿易の黄金時代と云ひたる頃なり」とあつて、日本の輸出高は和蘭のみで、年々四五十萬兩にのぼつたころである。しかも日本から積出されるものは最初に黄金、つぎは銀、つづいて銅といふぐあひで狡智なヨーロツパ商人どもに乘ぜられて、怖るべき勢で貴金屬を失ひつつあつたのだから、幼稚な幕府もおどろいて、それらの危險を防ぐ施策の一つとして、より澤山の和蘭通詞をもとめてゐたと考へられるし、幕府は松浦侯に命じて庄太夫を召抱へたのだと察せられる。
 庄太夫は、諱を榮久といひ、のち剃髮して良意といつた。四十一歳で小通詞となり、四十六歳で大通詞に陞つた。彼が六十八歳のとき、幕府は和蘭通詞に目付をおく制度を設けたが、庄太夫はえら
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