も何故に活字は江戸に生れず、長崎に生れたのだらうか※[#疑問符感嘆符、1−8−77]
 嘉平が元祖か、昌造が元祖か、そんなことは大きな問題ではない。江戸で生れず長崎で生れねばならなかつたその社會的事情、ああその事情、それこそ「本木昌造傳」に是非書かれねばならぬ要素の一つだと、私はいつか大塚驛前を通りすぎ、白木屋の前に出てしまつてから氣がついて引返しながら、さう考へてゐたのであつた。
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        長崎と通詞


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      一

「――せめては板刻の業のみも半年にして終らせ玉へかし、小子の生命計り難きが故に、其功を急ぎ候事、胸に火を煽るが如くにて御座候――」
「海國兵談」の著者林子平は、同書の印刷に當つて、東北の片隅から江戸の有志にむかつて、火急の檄を發してゐる。
「――小子は遠鄙に在之候を板刻の諸用を調度仕候故、直に諸君に奉謁し奉告事不能候、因て東都の心友手塚市郎左衞門、柿沼寛二郎、森島二郎、工藤平助、藤田祐甫の五人に托し候て右御入銀の取次を相願候事に御座候、御入銀の御方方右五人の内催寄の者候はば即ち板刻の處に相屆申候――」
 これは今日でいふ「豫約出版」の勸誘状であるが、江戸中期以降、海邊漸く多事ならんとするとき、「海國兵談」の著述をもつて命にもかへがたいとした林子平が、當時の印刷術の迂遠さと、その高價さとを嘆く、身を灼く思ひがその全文にあらはれてゐる。私は文明の今日、印刷業にたづさはつた人間の一人として、次に見る「海國兵談」印刷費用の内譯を、ふかい感動をもつてここに掲げよう。

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一つ、右海國兵談者初卷の水戰の卷より末卷の略書に至つて總て十六卷、紙數三百五十枚也、是を八册に造
一つ、右海國兵談千部を仕立候て世に施し度事小子終身の大願にて御座候事
一つ、右の如く千部を仕立候事其れ不少候、因て書肆を招て千部を仕立候、値の大略を計畫せしめ候、其大數左の如し
一つ、紙一枚の彫賃四匁五分也
 三百五十枚の彫賃一貫五百匁也、金にして二十六兩一分也
一つ、全部八册にて紙八帖づつ用ゆ、千部にて八千帖也、一帖の値八分五厘宛、八千帖にて六貫八百目也、金にして百十三兩一分と銀五匁也
一つ、表紙八千枚、一部八册千部八千册、一枚の値二分五厘づつ、八千枚にて二貫目なり、金にして十兩二分と銀
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