自分で疑問をだした。
「しかし片假名は、假に字母があつたとしても、支那人の職工にくめますか?」
 私は「くめる」と答へた。植字工は特別な感覺をもつてゐて、たとへば日本の歐文植字工でも英語やドイツ語が讀める者は殆んどないが、それでも十分やつてのける。私の不審は片假名活字にあるのだが、木村の活字が上海まで搬ばれたか、ないしは誰かが片假名の種字をむかふで書いたか、である。
 奧附もないが、丸がかりの洋裝で、がつしりした革表紙の背には箔捺しで「英和對譯辭林」とある。用紙がラフに似た洋紙であることからも、當時の日本印刷術からみて和製と疑ふすべはない。
「ああ、いいものがあります。」
 また階下へおりていつたI・K氏は、薄い古雜誌を持つてきた。「新舊時代」といふので明治文化研究會が發行した昭和二年二月號である。めくられたところに「明治初期に出版した英和辭書類、石井研堂」とあり、その一項目が、「サツマ辭書」に關するものであつた。「薩藩洋學の教師高橋新吉、長崎にあり。洋行して宇内の新知識を究めんと欲すること多年。――偶々長崎人蔡愼吾と交情あり、一日愼吾勸めて曰くに、開成所の「英和對譯袖珍辭書」を増訂して洋行の資を得たらば如何」と。つまりこれが「サツマ辭書」刊行の動機であつて、當時開成所版の辭書(大福帳型)は十二三兩の値段だつたから、多量に増訂したら利益もあらうといふ譯である。以下意味だけ述べると、「本邦に活版印刷の業未だ起らず」愼吾の紹介で長崎の宣教師フエルベツキに逢ひ、フエルベツキまた上海の傳道印刷會社ガンブル商會を紹介して、出來拂ひの契約で印刷することとなつた。「サツマ辭書」はつまり開成所版の改訂版であるが、高橋がどれ程の造詣をこの辭書に傾けてゐるかは、私に判斷できない。とにかく高橋が上海に渡つたのは慶應三年で、間もなく大政奉還の御一新に遭ふや、一旦歸國したが、再び上海に渡り、明治三年の一月三百部が完成したといふ。
 そして研堂氏の文は「あるとき前田正名翁筆者に語りて曰く」とつづいてゐる。前田献吉、正名の兩人もこの辭書計畫の關係者で二人共に上海へ渡つた。「活版所は上海の某寺院であつて、支那人を使役してゐた。」文中印刷そのものに觸れたのはここだけであつて、片假名の種字がどうしてあつたか、嘉平の活字と由緒があるかどうかもさつぱりわからないが、讀んでゐるうち、私は思はず聲をたてた。

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