戸參府の歸途、島津江戸邸の門前を通過するときは駕を降りて、日本流に敬禮したと、彼自身の「日本囘想録」に見えてゐるくらゐだから、或は信用していいか知れぬ。しかしそれよりもつよく、當然私らの考へにはいつてくるものは、「島津侯に祿仕せしめられ」た川本幸民であり、幸民と嘉平とのつながりであらう。殊に「月々理化學の講義云々」を思へば、直接ではなかつたにしても、この學者と名工が科學の絆によつて、何らかの形でむすばれたらうと想像することは無理であらうか。
ところで私は「嘉平の活字」の行衞を追つかけなくてはならない。手がかりは二つあつて、一つは前記の「昔時本邦創成の和歐活字製作略傳」中の末尾に見える、嘉平の活字がサツマ辭書の印刷に用ひられたといふのであり、いま一つはK・H氏が私に見せた大福帳型のオランダ單語篇と、同じくK・H氏が「八王子の活字」と稱ぶところの、やはり蘭書「濟生三方附醫戒」である。單語篇のイタリツク風の活字は既に見た。「濟生三方附醫戒」はK・H氏もまだ見てないらしいが、同氏が「八王子の活字」と名づけてゐるところの所以たる、ある文獻を貸してくれた。それは第千百五十號の中外醫事新報と、同第千二百八十六號別刷の薄つぺらな古雜誌である。そのどつちにも陸軍軍醫中將秋山練造といふ人が書いてゐるが、別刷の方には「安政五年父の飜刻せる蘭書「濟生三方附醫戒」について」と題してある。
練造氏の文によれば秋山氏は代々八王子に住んで、「濟生三方附醫戒」を出版した先代方齋は「幼名佐藏と云ひ、祖父の死後家と名を襲ぎて、義方と稱し、醫にして士であつ」た。安政五年の出版で、蘭書フーフエランドの寫本を原稿として鉛活字で印刷したといふ意味が述べてあり、練造氏の幼時の記憶によれば「又活字も診察室の戸棚に澤山あつたものでした。それが皆我家全燒の時失はれて――活字の鑄型が二個殘つて記念となつてゐるのみです」。また別のところでは「印刷に用ひた活字は少くとも五種を見ることが出來る。即ち大文字大中二種と、同じ大文字ながら少しく右に傾むいたもの、並びに小文字及イタリア風小文字である」。
寫眞でみる同書の製本は粗末で不細工ではあるが、ハイカラな英語のリイダアでもみるやうな洋裝であつた。鑄型が殘つてゐるといひ、「之を緒方博士所藏の蘭本原文と比するに文章は勿論同じだが、第一には、活字の大きさが違ふ爲各行が必ずしも同じ
前へ
次へ
全156ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング