安政三年六月の「セイタンキシス」が、同九月の「スプラークキユンスト」になると和製洋活字の混合度合が増加し、五年の「理學訓蒙」となるといま一段めだつてゐる。いふまでもなく原版刷りの活字は激しく磨滅して使用に堪へなくなり、しかも補給は萬里の海外に求めねばならないからであつた。昌造らの苦心は想像することが出來るが、しかしまた手工業的な「流し込み」といつても、相應の歴史と傳統が必要であらう。昌造ら輸入の洋活字は既に四世紀の歴史をもつてゐて、緻密精巧になり小型となつてゐる。十二ポイントそこらのパイカを最大とするくらゐだから、和製の洋活字も補給のためには、それに傚はねばならなかつたことを「流し込み」の初期グウテンベルグらの活字が非常に大きなものだつたことと照しあはせて困難だつたと思ふのであるが、また昌造の意圖が、今日殘る安政年間の鋼鐵製遺作字母が、日本文字のしかも漢字であつたことを思へば、洋文字活字をもつて本意としてゐなかつたことも理解できるであらう。
 昌造この時期の心中を、私らはわづかの記録や遺作によつて想像するよりないが、「和英對譯商用便覽」が一枚板の木彫で、わづかに和製洋文字のノンブルを附けたに過ぎないものであつたのをみれば、ときには大きな絶望に襲はれることもあつたかと思ふ。未曾有の變動期「安政の開港」をめぐる幕府の印刷工場も、わづか「プレス印刷」の歴史を殘しただけで、七年の歴史を閉ぢねばならなかつたと同じく、昌造の日本文字の「流し込み活字」は、それが印刷物となつてのこるほどの發展はつひに見ることが出來なかつたのであつた。
 繰り返すやうだが、活字の歴史にとつては、その民族の文字がもつ宿命は何と大きいであらうか。江戸の嘉平の洋活字、長崎の活字板摺立所の洋活字は、まがりなりにも比較的容易に印刷に堪へるものが出來た。しかも日本文字の流し込み活字は、至つて幼稚なものといはれる昌造の「蘭話通辯」をのぞけば、江戸の嘉平、長崎の昌造の苦鬪にも拘らず、今日何一つのこるほどのものがなかつたのである。考へてみればアルハベツトの民族は、前述したやうに木版や木活字の歴史をわづか半世紀足らずしか持たないで、流し込み活字の歴史を十五世紀から十九世紀へかけて四百年も持つた。それと反對にわが日本では「陀羅尼經」の天平時代から徳川の末期まで千年の間、木版と木活字の歴史をもつたかはりに流し込み活字の時代
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