の著者もまた古賀十二郎氏の談をあげて「然し蘭書輸入の點ではとがめは受けて居る」と云ひ、「安政二年に幕府の命に依り、奉行水野筑後守の調を受けて居る。それは和蘭書無斷買入れである」と[#「買入れである」と」は底本では「買入れであ」ると」]、「蘭書取次原因説」に同意して[#「「蘭書取次原因説」に同意して」は底本では「蘭書取次原因説」に同意して」]、しかし「微細なものにて、入牢せられたものとも想像されず」と否定説を固持してゐるのである。
 そこで私らが判斷しうることは、入牢肯定、否定を通じて、昌造が安政二年には「蘭書取次」あるひは「購入」で幕府に罪を問はれたことだけは確實だといふことである。たとへば「印刷文明史」のいふ如く「揚屋入りを申しつけ」られたといふ「入牢形式」ではなかつたかも知れぬが、「本木、平野詳傳」の著者のいふところもまた、その他の形式による處罰もまつたくなかつたと否定し得てゐるわけではない。逆にいへば、昌造の通詞としての公的生活は、殊に嘉永六年以來は非常に多忙で、常識的にいへば順調だつたにも拘らず、安政二年以後は萬延元年末飽ノ浦製鐵所御用係となるまで、ほとんど絶えてしまふのは何故であらうか? 通詞としては「下田談判」以來の小通詞過人から生涯のぼることのなかつたのは何故だらうか? といふ疑問にも答へ得るものとはなつてゐないことである。
 つまり肯定説、否定説のどちらも、その全部を信用することは出來ぬのであるが、假に判斷を想像的に延ばしてゆくならば、共通する原因の「蘭書購入」にもとめてゆかねばならぬだらう。「詳傳」の著者もいふごとく、それが「微細な」罪であつたかどうかである。前記したやうに安政二年の後半からは尠くとも表面的には「蘭書の輸入が間にあはな」かつたほどの時代であつた。そのために日本で最初の公許の「印刷工場」が出來た時代であつた。嘉永二年の「近來蘭醫増加致し世上之を信用するもの多く之ある由、相聞え候、右は風土も違候事に付、御醫師中は蘭方相用候儀、御禁制仰出され」た「御布令」の時代から見ると格段の相違があつたやうに見えるが、また一方では「長崎談判」の折森山榮之助が譯述して公用に役立つた英書を同じ應接係役人の箕作阮甫でさへが讀むことが出來なかつたやうな實情もあつて、それが嘉永六年の末である。また安政元年から二年まで同じく川路左衞門尉に隨つて「下田談判」へ參加し
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