嚴守」のたてまへから、土佐藩の註文であつたと謂はれるが、嘉永六年ペルリ、プーチヤチンの來航、安政元年の「神奈川」「下田」二條約の成立といふ、時の情勢と對應してゐて興味ふかい。安政二年江戸から歸國後、直ちに永井、勝らの海軍傳習所の通譯係を任命されたのも、時代の波が命ずるところであつたらう。同僚の森山榮之助は改め多吉郎となつて外國通辯方頭取となり、同僚堀達之助は蕃書取調所教授となつた。昌造もまたこのままでゆけば、いちはやく何らか幕府的に表だつた役柄となつたのであらう。ところが彼は同じ二年に幕府に罪を問はれて「入牢」してしまつたのである。
「この年氏は長崎へ歸りしが、時の長崎奉行水野筑後守は幕府の命によりて、氏に突然揚屋入りを申付けた。乃ち氏は牢獄の人となつた。その理由は、氏が江戸に滯在中、天文臺の諸役人より依頼を受けて、天文に關する蘭書の購入方を引き請けてゐたのが原因である」と「印刷文明史」は書いてゐる。
 三谷氏の「本木、平野詳傳」を除けば、福地源一郎の「本木傳」も「世界印刷通史日本篇」も、その他多くの本木傳が、彼の入牢説を支持してゐる。しかもその入牢期間は、一致して安政二年から安政五年十一月までといふ長期である。これは昌造の生涯にとつてほんの「躓きの石」くらゐではないだらう。前にも述べたやうに、通詞に對する罰則は一般にきびしくはあつたが、しかし「印刷文明史」のいふところを信じても、單に蘭書購入方取次といふだけではあまりに過重ではないかといふ氣がする。
「天文臺の諸役人」は幕府の外國關係の役所である。しかも安政二年には蘭書の輸入が間にあはなくて、長崎奉行西役所内に印刷所をつくつて「日本製洋書」をこしらへた程である。そして昌造を訊問した水野筑後守は「下田談判」當時の次席應接係で、昌造はその配下であつた。昌造の養父昌左衞門は通詞目付で現存してゐて、假に多少の私情がものをいふとするならば相當の力もあつた筈である。しかも昌造は「長崎談判」以來、長崎通詞中功勞のあつた人間である。嘉永の初期とちがつて尠くとも表面的には緩和されてゐた筈の「蘭書購入取次」くらゐが、何故にそれ程の重罪に問はれなければならなかつたらうかといふ氣がする。
「本木傳」の多くが彼の入牢を「ほんの躓き」とする傾向をおびてゐる。福地源一郎は「同年本木昌造先生故ありて入牢せられぬ。その故詳ならず、人の傳ふる所に依れ
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