ふ觸書が出、「町在とも、若異人より音物等相送り候共、一切受申間敷、幼年之者など、何心なく貰ひ受候とも、早々奉行所え可申立、萬一かくし置きあらはるるにおいては――」といふ觸書が出た。
それでも異人共は日々の生活品を求めて町々を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る。異人相手の公許の日本品賣買所である「缺乏所」の商人も異人相手に片言の異人語なり手眞似で通ずることを止めねばならなかつたが、「無筆」のアメリカ「マタロス」どもは、日本字は勿論蘭字も讀めない。「缺乏所之儀、此程御談判之上、町人共と夷人直に引合致さざるため日本字値段之脇之蘭字をも認めさせ、右にて不便之事も有之間敷と取計らはせ候處、マタロスの類ひに至り候ては無筆の者有之、是迄の仕來りを以て、居合せ候町人共へ値を承り候得共、言葉を替せ候儀不相成故、終には憤り、手を振り上、又は口などつねり候――」といふやうなわけで、ここにも通詞が至急必要だと下田取締配下の平山謙次郎から川路へ愬へ出た。
まつたく長崎通詞は、「長崎の通詞」であることが出來なくなつたばかりでなく、「オランダ語の通詞」であることさへ出來なくなりつつあつた。日本全國の港々の通詞でなければならず、蘭語は勿論、英語、露語、佛語の通詞でなければならなくなつてゐた。そしてもつと重大なことは、いま一つ彼等通詞が、單に通辯であることだけで止まつてゐられなくなつたことであらう。異人語に通じて異人の文化を知つた以上、そして祖國がそのために困難に陷つてゐる以上、彼等はその人間個性を通じて、夫々の方面に分化し、夫々に實踐しなければならなかつたのである。
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最初の印刷工場
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一
第三囘めのロシヤ使節が長崎へ來た嘉永六年は昌造三十歳であつて、この年はじめて父となつてゐる。當時の慣習からすれば晩い方であらうが、妻女縫はこのとき十五歳で長男昌太郎を産んだのである。三谷氏の「詳傳」家系圖によれば、縫は養父昌左衞門と後妻クラとの間に、天保五年四月に出生したのだから、正確には十四年と何ヶ月であり、ずゐぶん若いお母さんである。したがつて昌造らが結婚したのは、恐らく昌造二十八九歳、縫十三四歳のときであつたらう。
縫と昌造は從兄妹同志である。「印刷文明史」の著者は「氏は元服を加へたるとき、家女と結
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