面白い※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話も幾つか記録にみえる。プーチヤチンは最初軍艦の建造を懇請したが、沖合に出沒してゐる英佛艦隊と中立地帶で海戰でもされては困るので、幕府は許可せず、運送用としてのスクーネル一隻が、ロシヤ人と日本人とで建造されつつあつた。
 翌二月十六日にも、川路へ上申した森山多吉郎からの上申書があつて、「今十六日、魯西亞使節多吉郎へ面會仕度旨、通詞本木昌造を以申立候に付、其節御屆之上幸藏一同と右宿寺戸田村寶泉寺え相越し面談仕候――」云々。プーチヤチンはスクーネルの建造をはじめてからは、監督をかねて戸田村の寶泉寺へ宿泊してゐた。したがつて昌造は造船場及び寶泉寺付として、當時の通詞中一ばんロシヤ人と接觸してゐたわけである。
 戸田村は下田から十里餘を距てた駿河灣の内懷にあるが、このときから日本ではじめて洋式の近代船を打建てた歴史的な土地となつた。スクーネルの建造は勿論ロシヤ人の設計で、ロシヤ人の船大工がこれに當つたが、日本人の船大工も澤山これに參加した。プーチヤチンは萬里の異境に在つて多くの船を失つた窮状を、日本側がよく諒解して建造に助力してくれた點について感謝した趣きは、彼自身の記録にも、また翌年ロシヤ政府の名を以て送られた感謝状にも明らかであるが、幕府としてもこの稀有な機會をつかんで洋式造船術を學びとらんとしたわけで、當時參加した船大工も、關東一帶の腕利きばかりを集めたと謂はれる。
 またロシヤ人たちも自分たちの技術を傳へるにやぶさかではなかつた。二月二十九日寶泉寺で會談したプーチヤチンは中村爲彌に次のやうに語つてゐる。「スクーネル新船之儀は繪圖面其外巨細之儀、川路樣え可申上、尤私出帆まで兩三日之日合有之候――スクーネル船日本にて御用ひ被成候節は長崎まで三日程にて相※[#「舟+走」、317−7]り申候、隨分御用辨に相成可申候――スクーネル船には、輕荷積入不申候ては不宜候間、石にても御積入可被爲、尤も荷數之儀は猶委細可申上候――」といふので、船底が深いから荷物が輕いときは石でも積めといふことや、江戸、長崎間を三日ではしるなどは當時としては驚異的なことであつたらう。
 川路も勿論この新造船に充分の關心を持つてゐたわけで、二月二十四日の日記に「晴、五ツ半時戸田村大行寺之魯人使節布恬廷呼寄候て及應接、夫より魯船製作
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