、各々其所領において、互に保護し、人命は勿論什物においても、損害なかるへし」といふのが、同じ第一條である。つまり後者の方が前者にくらべて幕府的自主的な匂ひがする。内容ではなくて文の調子といつたものを指していふのであるが、このへんにも林大學對ペルリと、川路對プーチヤチンの相違があるやうだ。
「日露修好條約」の場合も、蔭にかくれた長崎通詞らの活動を考慮にいれなければならぬ。川路は「日米修好條約」が成立してから間もない四月二十九日付で、アメリカ應接係の林大學へ通達して「紅毛大通詞過人森山榮之助儀――當分拙者共手付にいたし置候樣、伊勢守殿被仰渡候、尤此程及御答置候通魯西亞人渡來迄は、下田表御用相勵、拙者共において先は差支無之候、此段爲御心得及御達候也」といふので、つまり阿部伊勢守殿も御承知の事、榮之助は依然自分たちの手付だからお含み置きを乞ふといふわけである。「魯戎」はいつ渡來せぬとも限らぬ。しかもすぐれた通詞は絶對必要で、榮之助など奪ひあひだつたわけであらう。榮之助は改め多吉郎となり、士分にとりたてられて、「下田談判」のときは、「横濱談判」のそれよりも活動したのであるが、他の通詞たちも、長崎から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、記録に殘つてゐなくても、當時の海防係を援けていろいろと活動したことは疑ひないところである。
川路は力量才幹ある政治家であつた。ペルリ以上の人物と謂はれるプーチヤチンと太刀打の出來る外交家は、當時の幕閣において、川路をのぞけば他になかつたらうとさへ、今日の歴史家は云つてゐる。プーチヤチンもまた前二囘のロシヤ遣日使節にくらべて出色の人物であつた。當時のプーチヤチンの立場はまつたく四面重圍のなかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸までに及んでゐた。英佛の艦隊はプーチヤチンの「デイヤナ號」および乘組の兵員を捕獲しようと、安政二年の三月五日と十一日には、佛艦「ポーテアン」が大砲六門をならべて、下田沖合に出現したし、同じ十二日には、箱館に三隻の英艦があらはれて、大砲四十門をならべて、プーチヤチンの歸航を待ち伏せてゐた。故國を離れてすでに多年萬里の異境にあつて、しかも彼はそこでも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを
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