上置可被下候――」と江戸老中宛に書いてゐる。
したがつて六月二十八日、ペルリが日本を退帆しても海防係たちの苦心は去つたわけでなかつた。そして果然、プーチヤチンの軍艦は九月十八日に思ひがけなく兵庫洋にあらはれた。大阪市内には城代からの緊急町觸れが出て、畏くも同月二十三日には七社七寺へ御祈祷のことなどがあつた。その他安治川尻に進航してきた一行の船をめぐつていろいろの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話ができる騷ぎであつた。昌造が魯艦との間に桂小五郎や五代友厚などの通辯をしたのもこのときだと、前記三谷氏の文にあるが、いまは確實な資料をもたぬので述べぬ。しかし大阪市中の騷ぎにも拘らず、沖にゐる魯艦は至つて平穩だつたと大阪城代の記録が誌してゐる。
九月二十九日には老中よりの諭書が魯艦宛に屆いて、同日即刻大阪城代から沖合にゐるプーチヤチンへ手交。「――箱館において差出され候横文字並に漢文之書翰、江戸到着致し、老中披見に及び候、大阪港は外國應接之地に無之故、總て應對難致候、伊豆下田港え渡來可致候、筒井肥前守川路左衞門尉も速に下田え可相越候間、得其意、早々下田港え相越候を相待候也」といふのがそれで、文中、箱館においてプーチヤチンから江戸老中宛に出した書翰といふのが、まだ出役中で江戸滯在の森山榮之助及び本木昌造兩人で飜譯したものである。「大日本國の執政に此一翰を呈す」とはじまつてゐるが、この飜譯文などは從來の長崎通詞の譯文としてはきはだつてハイカラになつてゐる。「我長崎の港に至りし度、日本政府の貴官に告しは、二ヶ月を經てアニワ港に赴くへしと。然るにロシア國とヱゲレス國フランス國との不和ありしに依て、我國の海濱を去り難きに及へり。――もはやその事果て、箱館に來り、此一書を江戸に送つて、フレガツトに薪水食糧を貯んとす。――日本政府の貴官と治定の談判を遂んかため、此地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんことを乞ふ、速に江戸表へ來るへし。」
さらにこのプーチヤチン署名の書翰の日付をみると八月三十一日で箱館奉行へ呈出されたものであつた。私はこの緊急重大な書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を貯」へて數日後に出帆した船足のはや
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