書送被下候」云々も、當時の外交事情のうちで置かれた通詞らの位置といふものを考へれば、どれくらゐ表裏ある「御約諾」だつたかも知れぬ。しかしまたそれにも拘らず「猶私よりも評判記且御入用にも候はば――失念仕間敷候」云々のごときは、敵とすれば大敵である「墨夷」を知るためにも、こちら側で是非と欲した感情が、うかがはれるやうである。
 殊に文中卒然としてでてくる「本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度」云々は、何かしら、もつと苛烈なものが感じられるではないか。それは單に、數ヶ月の接觸のうちで育まれた親しみだけとはちがふ。數ある通詞のうちで、昌造だけがポートマンにこのやうな印象なり、注目なり、親しみなりを與へてゐるといふことは、長崎通詞一般とはちがつた何かが、たぶんはヨーロツパ文明のどの方面へかのズバぬけた理解と、探求のはげしさがあつたのだらうと推察できる。

      三

「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
 とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議
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