られた。――人民が一般に讀み方を教へられてゐて、書物を得ることに熱心だからである。アメリカ人に接觸した日本の上流階級は、自國のことをよく知つてゐるばかりでなく、すこしは他の國々の地理、物質的進歩及び當代の歴史についても知つてゐた。――彼等の孤立した位置を考慮にいれると、その質問はまつたく注目すべき知識を有することを明らかにした。――鐵道や電信、銀版寫眞、ペークザン式大砲、汽船についても心得顏に語ることが出來たのである」
これは主として蘭書仕込みの、「蘭學事始」以來百餘年に亙る澤山の學者の辛苦が育んだものであらう。そして鎖國のうちにあつても、進取の氣象を失はず、宇内の知識をきはめて日本の安泰を護らんとする氣象こそが、一面「神奈川條約」を自主的に成功せしめたものであつて、決してペルリの武威に屈したとのみは考へられない理由の一つである。
二
さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれに、前者は堀達之助と、後者は森山榮之助と共に署名捺印してゐること。他の一つは七月二十九日付飜譯のペルリの通譯官ポートマンより森山榮之助へ宛てた私的書翰のうちに昌造について觸れてある文章であつて、現在の私の力ではそれ以上を知ることが出來ない。
昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟となつた正月五日から、神奈川條約文の飜譯をした三月三日の間であることはたしかであるが、「明治維新史料第二篇卷ノ三」に、二月一日付の「村垣公務日記」として「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、たぶんそれと一行したか、その前後であつたと考へることが出來る。それからいつごろまで横濱村に滯在したか? 前記五月二十五日付の飜譯文があるので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか? 七月の初旬には「吉田東洋傳」の寺崎志齋[#「寺崎志齋」はママ]日記にみえるごとく、江戸築地の土佐侯造船場にゐたことが明らかだからである。
ついでに昌造の安政二年までの動靜をいふと、元年九月には安治川尻にあらはれた魯艦について
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