憐愍」であつたし、一方的のものだつたからである。ペルリは最後に「米清修好條約文」を參考のためにと手交して「――今出す所の案書を熟覽あらば、再三に詞盡すにも及ばず、今兩國にて交り會し、互に心中を相知り、和親之條約せん。もし此度請ひ望む所を許容なからんには、某決して國に歸らず、江戸への貢獻物もいかに取はからふべき方なければ、何時迄も此海上に滯留して左右を待つべし」と結んで會見は終つた。
二月十三日には書面を以て「――我國命之趣は廣大之意に有之、就ては貴國政府時勢を辨へ、私志願之通、治穩和親之談判を遂げ、兩國人民滿足之取極相立候儀、猶豫無之樣――」と強調して長崎港以外に、箱館、琉球にも港を開けと主張し、二月二十五日の會見では下田及び箱館開港の豫約が出來、三月三日の會見によつて、遂に「神奈川條約」が成立した。「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」にはじまつて、下田は條約批准後即時にも開港し、箱館は翌年三月から開港「亞米利加船薪水食糧石炭缺乏の品を、日本にて調候丈は給候爲め、渡來之儀差免し候云々」の文句は周知のごとくである。これはまさしく破天荒のことであつて、たとへば第五條のうちにいふ「――長崎に於て、唐和蘭人同樣、閉籠め、窮屈の取扱無之、下田港内の小島周り凡そ七里の内は、勝手に徘徊いたし――」などは、つい數ヶ月前ロシヤ使節の軍艦が半年餘を長崎沖に碇泊しても、和蘭使節の軍艦「パレムバン」が五ヶ月を海上に滯泊しても、奉行所における會見以外、一歩も上陸を許さなかつた過去にみて、おどろくべきことだつた。福地源一郎が、「幕府衰亡論」のうちで、このときを指して「開國の根本決す」と云つたのも當然であらう。つまり、「通信通商を許さ」なくても、「渡來之儀差免し」て、「日本にて調候丈は給候」とあれば、もはやそれだけで、「通商」にちかいものだつたからである。
ペルリの蒸汽軍艦は四月十八日に江戸灣小柴沖から下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航、下檢分旁々二十五日を碇泊。五月十三日にこれも下檢分のため箱館へ行つた。その間雙方の贈物も取り交されて、このときアメリカが贈つたものに小型の蒸汽機關車、ホヰツツル式大砲等があつたことは有名である。しかしこのアメリカ應接のことが、最初の危機を孕んだ險しい雲行にも似ず、案外無事に終つたことは何に原因してゐるだらう
前へ
次へ
全156ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング