」には記録してある。從つて、副將軍齊昭は多勢に無勢、老中筆頭伊勢守はいづれとも決しかねて終始沈默をまもるし、「齊昭手記」は「二月五日、昨日廟議之模樣少しも不振、去月下旬より昨日迄之模樣――只々和議を主とし――老中はじめ總がかりにて我等を説つけ、是非和議へ同心いたし候樣にとの事にて、不堪憤悶、此まま便々登城いたし候ては恐入候故、今日は風邪氣と申立、登城延引」と書いたほどであつた。
 もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度は伊勢守をも動かしたであらうし、通信通商の儀は一切拒絶と漸く決まつた。「二月六日、今日五ツ半刻、供揃にて太公登城――通信通商之儀は決して御許容無之と、閣老決議之段申上、林、井戸へも其旨達しに相成候由、太公御快然可知」と齊昭の家來藤田は「東湖日記」に書いた。當時の江戸警備の物々しかつたことも周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では異變の際は江戸市民へ早盤木をもつて知らせるなど布令を出して、齊昭より「――墨夷及狼藉候迚も、何も御府内町人等へ爲知候には及不申、武家さへ心得候へばよろしき儀――その外は却て火元盜賊の用心、やはり其宅々を守り候方可然――」と叱られた程である。
 しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所を横濱に設けたからと申入れた際、「承知仕候――乍序御談話に及候、此節相願候一件御承引不被下候はば、不得止直に戰爭を可致用意に候、若し戰爭に相成候得ば、近海に軍艦五十隻は留め有之、尚又カリホルニヤにも五十隻用意致し置候間、早速申し遣し候得ば、廿日の程には百隻の大艦相集り候云々」とおどかされたのであつた。まつたく不埓至極であるが、このおどかしは黒川嘉兵衞がたとひ勇武の人間ではあつても、まつたくヨーロツパ文明にくらいとすれば、何程にかは利きめあることだつたらう。
「――夷情察し難く、日夜苦心仕候事に御座候――阿蘭陀人、魯西亞人抔之樣に氣永には無之、至つて短氣強暴之性質故、義理を以て説破候ても、元より仁義忠孝之倫理は心得不申候――」と、アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考
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