席大通詞過人森山榮之助兩人で、以下大通詞志筑龍太、小通詞過人本木昌造、小通詞楢林量一郎、小通詞助楢林榮七郎等が活動した。
この「長崎談判」がロシヤ側から云はせれば不調に終つたことは周知のとほりである。通商は拒絶、北邊の國境問題も未解決のままで、プーチヤチンは再渡を約して去つた。これだけでみると、第三囘使節も前二囘の使節と同じ結果のやうだが、このときはロシヤ側の贈物も受取られたし、日本側からも贈物をした。また他日オランダ以外と通商するやうのことがあれば、隣國の誼みとしてロシヤとも通商するといふ言質を與へられたから、レザノフの場合といくらかちがつてゐる。殊に雰圍氣的にいへば、前二囘にくらべてずゐぶん緩和したものであつたといふ。
外國の使節が長崎にきて、江戸の應接係がそこへ到着するのに半年ちかくもかかるのはいつもの例であるが、このときは江戸と長崎の間が遠いからばかりではなかつた。周知のやうに、このときも水戸齊昭の頑張りによつて「通商拒絶」といふ方針が決するまでは、「以夷制夷論」などが生れて評議は永びいたのである。「ぶらかし案」の變形みたいなもので、つまり傲慢なペルリに通商を許すよりは、スパンベルグ以來アメリカよりは氣心の知れてゐるロシヤにそれを與へて、もつてペルリに對抗しようといつた説である。齊昭はペルリの退帆が六月十二日、プーチヤチンの來航が七月十八日、これは墨夷と魯戎の間に默契があるにちがひないから、「以夷制夷論」など危險だと喝破して、それを打ち破つたから、漸く前記の方針が一決して、筒井、川路の江戸出發が十月下旬となつたのである。
筒井、川路の任務も大變であつた。レザノフのときまではまだ目付遠山金四郎が一人でやつてきて、諭書を讀みきかせればよかつたが、しかしいまは、蒸汽軍艦が二日で長崎から江戸までいつてしまふ。魯戎の氣心はペルリとちがつて、何といつてもピヨトル大帝以來の對日方針の傳統が生きてゐて、若干穩和と思はれるが、結局「六十斤砲を撫し」てゐる點に變りはない。しかも「通商拒絶」を納得させておきながら、彼らの軍艦を江戸へやらぬやうにしなければならない。筒井、川路の奮鬪がどれほど深刻だつたかは、川路自身の日記や、相手方のゴンチヤロフの「日本渡航記」がよく描寫してゐるところである。さきの江戸奉行で、幕府の役人中では新知識といはれ、水野越前が自ら求めて友人にえらんだと
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