である。これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と自己の法規によつて敢て生きんとしてきた人類の大集團である。外國人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この國を教化せんとする我々の企圖を嘲笑し――てゐる國である。
いつまでもさうして居られようか? と我々は六十斤砲を撫して云ふのであつた。日本人がせめて入國を許し天賦の富の調査を許してくれたらよいのだ。地球上で人間の棲息する各地方の地球や統計のうちで、殆んど唯一の空欄となつてゐるのは日本ばかりではないか。――」
「八月九日」は陰暦の七月十五日であるが、この文章は當時のヨーロツパ人の不遜な感情を語つてあますところがない。一はヨーロツパ文化の發展と確信である。一はヨーロツパ以外のすべてを植民地視するところの侵略的な無遠慮さである。それが渾然一體となつて、ゴンチヤロフほどの大作家も「六十斤砲」と結びつかねばならぬ歴史であつた。
十八世紀の中期以後、英國を先頭とする産業革命は、いまや一世紀を經て、全歐洲が完了に近づきつつあつた。紡績機械の發明と、火力による動力機の發見は、汽車や汽船はもちろんのこと、いろんな生産品を地球の西方から溢れださせて、それらは地球の東方に、その隅々に至るまで市場を、捌け口をつくらねばならない。各國の艦隊はその觸角となつて、紅海、印度洋、北から南に至る全太平洋、南洋諸島から支那大陸、はては極東「謎の國」「鍵を失くした玉手箱」の國に至る海とを縱横に驅けめぐらねばならなかつた。ペルリのいふ「大競爭」である。ロシヤも遲ればせながらフランスと共にヨーロツパ産業文明の一員であつた。第二囘の遣日使節レザノフのやうに、アラスカやカムチヤツカの沿岸で捕へた獵虎の皮を剥いで、日本をそのお客さんにしようとした「露米會社」時代とはわけがちがふのである。十八世紀の終りには英國よりも早く北支那の一角に市場を獲得してゐたロシヤである。「飛び石」の一つは既に出來てゐた。ペルリと同じく「併呑」政府が手を染めぬうちに、たとひ「六十斤砲」をぶつ放してでも「處女日本」を手にいれねばならなかつたであらう。
プーチヤチン一行が香港を出發したのは嘉永六年の六月一日、颱風の中を一路東支那海を東上して小笠原島二見港についたのが同じ六月二十八日、長崎沖にあらはれたのが七月十五日である。從來のロシヤ遣日使節はクロンシユタツトを出てから太平洋を北上し、
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