田伊豆守と會見、大統領親翰を手交した。十日には、軍艦四隻が江戸灣内にすすんで觀音岬に達し、着彈距離を測るなどの威嚇をみせて、十二日に、やうやく日本から退帆した。
 もちろん大統領親翰及びペルリの「上奏文」といふのは、一は捕鯨船その他アメリカ漂民に對する日本の取扱方改善、二は通商で、來年再渡來するまでに返辭をしてくれといふことである。このとき戸田伊豆守がペルリに讀みきかせた幕府の諭書は内容が微妙であるばかりでなく、從來のそれに比べると至つて平假名の多いハイカラなものになつてゐる。「――此所は外國と應接の地にあらす、長崎におもむくへきのよし、いく度も諭すといへとも、使命を恥しめ、一分立かたき旨、存きり申立るのおもむき、使節に於ては、やむを得さることなれとも、我國法もまたやふりかたし、このたひは使節の苦勞を察し、まけて書翰を受とるといへとも、應接の地にあらされは、應答のことにおよはす、このおもむき會得いたし、使命を全くし、すみやかに歸帆あるへきなり」といふのであるが、前に述べたやうに異國船渡來の歴史にみて、とにかく長崎、松前以外で國書を受取つたことは確かに異例であるにちがひない。
 第一囘の黒船來航はほんの十日間ばかりであつたが、豫想されるペルリの再渡來をめぐつて、幕閣でも、議論はいろいろわかれた。水戸齊昭は阿部へむかつて、「千騎が一騎に相成共」夷狄打拂の大號令を天下に示せと云つた。海防係の筒井肥前守や川路左衞門尉は「凡そ外國と戰端を開く時は、短日月に終結を見る事能はざるを例とす。されば大小砲彈藥を要する事莫大――故に今急に大號令案を發布するは策を得たるものにあらず」と云ひ、「水戸老公の――趣意については――一同に於ても異存毫もなし、唯二百年以來の昇平、特に水戰とては經驗なきところ、今戰端を開くとも必勝の見込なし」と云つた。また江川太郎左衞門は「御備へ――如何にも御手薄ゆえ、俗に申すぶらかすと云ふ如く、五年も十年も願書を齋せるともなく、斷るともなくいたし、其中此方御手當此度こそ嚴重に致し、其上にて御斷りに相成可然」といふ「ぶらかし案」を發議した。その結果名宰相伊勢守は「和戰」といふ、和して戰ふといふ特別な號令を出した。
 これらは當時の幕閣事情について語る今日の歴史家のすべてが、骨子に用ひるほどの記録である。そしてこれだけの記録からでも、次のやうなことがわかる。第一にわが
前へ 次へ
全156ページ中84ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング