集」や、萬延元年増永文治發行の「蕃語小引」等は民間活字版の系統に屬する」ものださうであるが、これらの書物の漢字、假名が、木活字ないし木版であつたことは云ふまでもない。つまり從來の「ばれん[#「ばれん」に傍点]」刷りを「プレス」刷りにしただけであつて、そのプレス式印刷も長崎の小範圍から遠くは出なかつたやうである。
 しかしそれにしても私らは二百數十年前、この同じ長崎の地から追放された西洋印刷術を思ひ出すとき感慨新たなるものがあるだらう。「きりしたん」と共にそれを逐つた同じ幕府が、今やふたたび迎入れねばならなかつた。「日本製洋書」は「需要著しきも供給不充分」として再製されねばならなかつた。シーボルトの「出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内につくられた幕府公認の學校「精得館」の生徒たちのために教科書とならねばならなかつた。
 日本製の洋書。アルハベツトにはじまつた「江戸の活字」。當時の學生が大福帳型の教科書の洋活字の一方に筆で和解して日本文字を書きこんでいつた事實をおもふとき、それが傳説めくほど微少ではあつても、昌造の日本文字片假名の「流し込み活字」の重要さと歴史性がわかるやうである。
 長崎奉行所の印刷所は日本の近代印刷術の歴史に魁けたもので、「プレス印刷」はこのときからわづかながら傳統をつくつたのであるが、何故幕府は「日本製洋書」をつくつてでも、一刻も早くヨーロツパ文明をわがものとし、文武いづれの面にも備へなければならなかつたらうか。それは云ふまでもなく「嘉永の黒船」から「安政の開港」へとつづく、まことに急迫した時の政治事情がそれであつた。

      三

「――異船々中の形勢、人氣の樣子、非常の態を備へ、應接の將官は勿論、一座居合せの異人共殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書御受取あらば、御國辱とも相成るべく、依つてなるべく平穩の御取計あるより他なし――」。嘉永六年六月三日(西暦では一八五三年七月八日)、アメリカ軍艦四隻について浦賀奉行戸田伊豆守が、閣老阿部伊勢守へ報告した一節であるが、このへん繰り返し讀むと、當時幕閣の複雜な對外事情がわかるやうで、なかなか苦心の文章である。
 アメリカの蒸汽軍艦が、わが江戸灣に出
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