初ある金屬に凸型に彫刻して種字(パンチ、押字器などとも謂ふ)を作り、それを他の金屬に打ち込んで、凹型の字母を作り、その字母に鉛を流しこんで再び凸型の活字を得るといふやり方であるが、字劃が複雜だつたり、技術が貧困なために、種字を省略して、いきなり凹型の字母を彫刻して、流し込み活字を得ようとした形跡が見える。三谷氏の「詳傳」によれば、大體つぎのやうに説明してある。――二つに割れる抱き合せの鑄型で、中央に活字の大きさだけの穴があいてゐる。鑄型の底には横にねかした凹型、つまり雌型の字母があつて、柄杓で溶かした鉛をすくつて流し込み、冷却を待つて、抱き合せの鑄型を割つてとりだし、活字の底部を鉋で削つて、一定のたかさにそろへる――といふのである。これだけの操作は大してむづかしいことではないが、いつたい字母なるものはどんな金屬であつたらうか。專門家である三谷氏の説明も、このへんは明瞭でない。最初雌型の木活字を字母にしたといふやうに誌してあるけれど、黄楊でも櫻でも、鉛の高温には堪へられぬし、さきに木村嘉平について私らはその失敗を知つてゐるところだ。三谷氏は別の著書「本邦活版開拓者の苦心」のうちで、このとき昌造は水牛の角に彫刻したものを用ひたらうとも書いてゐるが、恐らくこれが眞實に近いであらう。今日帝室博物館に所藏される昌造作の字母は鋼鐵に彫刻したものであるが、それはこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではないと、專門家たちには判斷されてゐて、いづれにしろ、昌造が嘉永年間に用ひた「流し込み活字」の字母のボデイが何であつたかは明らかでない。
 およそ人類科學發展の歴史は、金屬の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上の熱を要する鐵の熔解を試みたのが嘉永三年のことである。古來刀劒類の鐵は、鞴の力で鍛へられたけれど、まだ論理的には充分理解されてゐたわけでない。銅の「吹きわけ法」などもごく自然發生的であつたのだし、鉛活字に必要なアンチモンなども、まだ日本のどつかの山にかくれたままの時代であつた。つまり當時の状態では多くの金屬が未開にあつたし、加へてそれらの金屬は封建制度で流通も圓滑を缺く。昌造など蘭書の知識で若干の理解はあつても、手がとどかぬ憾みがあつたらう
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