せんとした。しかし薩藩吏の應戰によつて彼らは目的を達せず、一つの遺棄死體をのこして退散した。――
 つまり彼ら漂着船の目的は、自から單純であつた。彼らは、食糧薪水の補給さへすればよかつたし、それ以上にはせいぜい自國の雜貨を與へて、代りにめづらしい日本品を土産にでも出來ればよかつたのであらう。毛色眼色は異つても、言葉は通じなくても、政治的意圖をもたぬ人間同志はつねに親しみやすいものである。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でないから、この時代にこれらの船々が、鎖された國の人々に與へた影響は、けつして小さくなかつたにちがひない。
 そんな意味からもつづいて起つた天保八年(一八三七年)の「モリソン號事件」などは重要であつた。有名なこの事件はアメリカ、オリフアント會社重役チヤールズ・キングを主とし、日本語學者で宣教師ギユツラフ、博物學者ウエルズ・ウイリヤムズ、醫師で天文學者ピーター・パーカーらの一行であつた。「モリソン號」の眞の目的が何であつたか、直接には日本漂民で尾張の船乘岩吉、久吉、音吉、同じく肥後の庄藏、壽三郎ら數名を本國へ護送することで日本の歡心を得、間接には日本通商の下心を得んとするにあつたらうと史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭商館の妨害を懸念したことが考へられるなど、理由の一つである。
 しかしいづれにしろこの船は特殊であつた。その平和的使命を明らかにするために、モリソン號の一切の武裝を解除して、パーカーは醫療器械各種、藥品等のほか天文に關する器械、圖解などを携行、ウイリヤムズはまた博物學方面の資料を準備したと謂はれる。つまりモリソン號はその頃漸く支那において基礎を強固にしてゐたオリフアント會社の通商的野心から準備されたものであつても表面は漂民の護送、同時にヨーロツパ學術の紹介と普及にあつたといふことができよう。ところでモリソン號のかうした内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸灣へむかつたモリソン號は三浦郡白根沖合に差しかかるや小田原藩及び川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩國兒水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一發は命中、危險に瀕したので、つひに得ると
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