けねばならなかつたのである。
露米會社は一七八三年、レザノフの舅シエリコフによつて創立されたが、オホツクからカムチヤツカ、ベーリング海峽をこえてアラスカ北端に至る、つまり北極圈にちかい陸地では人類生存以來の出來事だと謂はれる。土人たちは武力によつて征服され、毛皮税を課されたが、一方からいふとはじめて文字を學び、近代武器や文明品を知り、一と口にいへばヨーロツパの基督教文化に浴したわけであつた。露米會社は初期においては隆盛をきはめ、一七九八年、寛政九年、北邊事情が子平、平助らによつて漸く日本人の間に注意を惹きつつあつた當時、露米會社の株券はヨーロツパにおいて三十五割方騰貴してゐたといふ。レザノフは露米會社支配人であると同時に、エカテリイナ女皇の侍從であり、露米會社は沿海州からアラスカに至る毛皮業はもちろん、植民、開拓の權限を持ち、必要な軍事施設、軍艦の建造、兵員の養成、士官の任免等、殆んど一個の政府にちかい權能を持つてゐた。
考へてみると、わが江戸時代、南から北から、鎖國の夢をゆすぶり脅やかしたものは、いくつかの會社であつた。殊にオランダ東印度會社、イギリス東印度會社及び露米會社の三つであつた。オランダ東印度會社はジヤワ、バタビヤに根據をおいた。イギリス東印度會社は印度とシンガポールに根據をおいた。露米會社はオホツクに根據をおいた。前二者は十七世紀初頭、秀吉時代に既に東漸しはじめてゐたのである。そしてどの會社もその本國政府に許されて、貿易、植民、産業開發、軍事に及ぶ同じやうな權能をもつて、互ひに相爭ひあつてゐた。葡の、西の、佛のそれらを考へると、それは間斷ない侵略と戰爭の連續であることを歴史は教へてゐる。
しかしまたそれは同時に近代文化・ヨーロツパ文明の放散でもあつた。ジヨホール王から掠めとつてシンガポールを建設したラツフルズはイギリス第一の東洋通であり學者であつた。オランダ國旗を唯一つ日本長崎で護り通し祖國の歴史を辱しめなかつた甲比丹ヅーフは、日本へ對するヨーロツパの理解を深めた第一の人であり、同じく日蘭貿易關係を改善して東洋におけるオランダの位置を強化したシーボルトはまた日本にとつて近代醫學の光を與へた人であり、ロシヤの版圖を北極圈まで伸張したシエリコフは、學校を建て文字と算術を教へ近代政治を與へて、カムチヤツカやアラスカ土人に不朽の光を與へた人であつた。私は
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