影響するところあつたか知れない。
しかし私の興味は三枚の長崎繪圖をとほして、沖合にかかつてゐる外國船の形の變遷にあつた。友人Kが慶應三年頃だと判斷する最後の一枚は、沖合の外國船の形がまるで變つてゐる。ナンキン船などどつかへすつこんでしまひ、二百餘年間長崎港の花形であつたオランダ船でさへ、隅の方にちひさくなつてゐる。ヱゲレス船、アメリカ船、オロシヤ船などが、それこそ港を壓してうかんでゐる。それに、これらの新來の船は圖體が巨きいばかりでなく、安永のそれに比べると怖ろしく長い。おまけに船の胴なかに巨大な車をつけてゐる。つまりこれらは蒸汽船である。まだ帆の力をまつたく無視してはゐないが、この奇怪な水車が、印度洋や太平洋の荒波をかきわけてきたのである。
安永のそれから天保のそれまで約六十年、天保のそれから慶應のそれまで約三十年、通じて約一世紀の、長崎港の沖合にかかる外國渡來の船の姿のうつりかはりは、誰にしろ海の日本の歴史を知りたい慾望をおこさせられるだらう。
日本の活字は昌造らによつて移植され、あるひは創造されたのであるが、一方からいふと、活字は船に乘つてきたものであつた。ドイツ人グウテンベルグが活字を發明したのは、西暦でいふと千四百四十五年で、昌造らがこれを移植したのは同じく千八百七十年であつて、四百餘年が距てられてゐる。その間、皇紀二千二百年頃、元龜、天正のじぶんにグウテンベルグ發明後百五十年ぐらゐ經つて、近代活字が全歐洲にゆき渡つて間もないときに、切支丹宗教と一緒に渡來したのであるが、家光將軍の鎖國方針によつて、切支丹と共に放逐されてこのかた、三百年そのあとを絶つたことは前に述べた。しかしあのとき活字や手鑄込式の活字鑄造機やが放逐されなかつたらば、日本の近代文化はどんなだつたらうと空想することは、面白いは面白いが、馬鹿げてゐよう。考へてみると、一つの文明品もそれ自體獨立に誕生するものでも成長するものでもないことは、三百年後それが再び渡來するまでの、寄せてはかへし、かへしては寄せくる波のやうな船々の渡來が、どんな複雜な事情と結びついてゐたかを考へれば、おのづから納得できることだからである。
日本の近代活字は開國と結びついてゐる。若し明治の維新がなく、開國のことがなかつたらば、わが近代活字の運命もおのづから明らかであつた。したがつて昌造、嘉平、幸民、富二らの日本活字
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