っていたんだい」
「英語さ」
 私はますますおどろいた。
「じゃ、英語よめるんだネ」
「ああ、話すことだってできるよ」
 私はとても不思議な気がして、林の顔を穴があくほどみた。そしてこの子が何でもない顔をしているんで、いよいよ不思議だった。
 しかし林が英語が上手なのは真実だった。六年のとき、私達の学校を代表して、私と林は「郡連合小学児童学芸大会」にでたことがある。郡の小学校が何十か集って、代表児童たちが得意の算盤《そろばん》とか、書き方とか、唱歌とか、お話とかをして、一番よく出来た学校へ郡視学というえらい役人から褒状《ほうじょう》が渡されるのだった。そのとき私たちは、林が英語の本を読み、私が通訳するということであった。
 読者諸君も、中学へあがられると、たぶん教わると思うが、ナショナルリーダーの三に「マンキィ、ブリッジ」(猿の橋)という課がある。手の長い猿共《さるども》が山から山へ、森から森へ遊びあるいて、ある豁川《たにがわ》にくると、何十匹の猿が手をつないで樹の枝からブラ下り、だんだん大きく揺れながら、むこうの崖にとびついて、それから他の猿どもを順々に渡してやるという話である。林はそれをもう本もみないでラクに英語で喋べるのであった。私は英語はよめないが、国語が得意だったし、お話が比較的上手だったから、先生がえらんだろうと思う。話の筋をよく暗記しておいて、林が一《ひ》と区切りする毎《ごと》に、私も本を見ないで通訳をした。
 学芸大会では拍手|喝采《かっさい》だった。各小学校の校長先生たちや、郡長さん始め、県の役人なども沢山《たくさん》いるところで、私たちは非常に面目をほどこしてから、受持の先生に引率されて帰ってきたが、それから林と私はますます仲良しになった。
 あるとき林の家へいって遊んでると、林が大きな写真帳をもってきて、私にみせたことがある。それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。
「ぼくが生れないずッとまえ、お父さんもお母さんも、労働者だったんだよ」
 林はそう言って、また写真帳の他のところをめくってみせた。そこには、洋服は洋服だが、椰子《やし》の木の生えたひろ
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