)学士会(北村喜八代読)三田文学(久保田万太郎氏)松竹興業株式会社(井上伊三郎氏)帝国劇場(山本久三郎氏)新劇協会(畑中蓼坡氏)左翼劇場(小野宮吉氏)新思潮社(青江舜二郎氏)日露芸術協会(金田常三郎氏)芽生座(伊藤基彦氏)子分の会(牛原虚彦氏)劇と評論(北村寿夫氏)の弔辞、ソ同盟対外文化連絡協会長カメネワ夫人の弔電の朗読があった。遺族、近親の焼香の後、劇場代表者土方与志が霊前に香を焚いた。午後二時から一般の焼香に移ったが、その間劇場員、「三田文学」「子分の会」「劇と評論」の代表者は、交互棺側に侍して弔問客に応接した。当日の参会者は、千二百人をくだらなかった。松竹キネマの撮影技師は、告別式の状況をカメラに納めた。午後四時一般焼香を終って、葬列はふたたび式場を発し、同五時半桐ヶ谷火葬場に到着、遺骸を荼毘《だび》に附した。
 二十九日午前八時半、喪主、遺族、近親、築地代表者は四谷自宅を出発して、九時十分火葬場に到着し、骨上げの式を行った。同十時三十分、各方面の関係者は府下北多摩郡多磨村多磨墓地に集合し、埋葬式を営んだ。小山内薫先生の墓標は、同墓地第五区甲の一の側に立てられた。埋葬式の状況も松竹キネマ「子分の会」の尽力によってカメラに撮された。
 翌三十日、初七日の法事を午後二時から金谷山宝祥寺に営んだ。読経の後、遺族、近親、参会者、築地小劇場員の焼香があって、当日|出来《しゅったい》したデスマスクが発表された。午後三時半法事を終って、ここに小山内薫先生の築地小劇場葬は恙《つつが》なく終了した。

          *

 なお告別式当日、霊前に読み上げられた築地小劇場文芸部起草の追悼文は、左のとおりである。
     追悼文
 小山内薫先生
 築地小劇場は、先生の二十有余年にわたる劇壇生活の最後の活動であり、最後の業績でありました。創立以来四年有半、朝夕先生の謦咳《けいがい》に接して、厳父のごとく仰ぎ見、慈母のごとく慕っていたわれわれ八十人の同志は、にわかに先生の死に面して、愕然として為すところを知らなかったのであります。
 顧るに先生は、新鋭の気を負うて劇界に身を投ぜられて以来、常に時代の第一線に立って、創作に翻訳に演出に評論に不断の努力を重ね、日本演劇界の先覚者たる光輝ある使命を果されたのであります。その晩年築地小劇場に拠って後は、半生の間に蓄えられた該博な知識と豊
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