、土方さんの演出の基本態度となるのだそうで、この新しい解釈による演出方針には、私なども大きな期待をかけております。
イプセンは、御承知のとおり、ノルウエ南部にあるシーンという小都会で二十歳までの年月を過しました。だから、彼の描く劇的事件の大部分は、この狭くるしい、原始的な社会の人びとの間で発生しております。たとえば「ノラ」なども、デンマークの法廷で起った一事件に着想したと言われておりますが、作に現われるロカリティには何となくシーンの匂いがいたします。ただこの小さな町で湧き起った問題を、ずっと高い地位にまで引き上げたのは、実に彼の天才と社会を見る眼の鋭さにもとづくものであり、一方また彼のコスモポリタンとしての生涯が、それぞれの社会問題を狭い範囲に押し込めないですむような視野のひろさをもたらしたことにもよるのでありましょう。
一体、イプセンは大器晩成型の作家でありまして、たとえばゲーテは、もし三十で死んだとしても「ゲッツ」と「ウェルテルの悲しみ」を残して行ったわけで、しかも、この二つの作品は、同時代人を動かした傑作なのでありますが、イプセンは、もし三十で死んだとしたら、文学史上に不朽の名を残すことはできなかったでしょう。初期のイプセンがスカンヂナヴィアの伝説から取材して書いた作品は、決して傑れてはおりません。また、もし、この時期に、後の時代に見るような社会劇を書いたとしても、おそらく、その視野のせまさは、彼に傑作を許さなかったと考えられます。三十五歳で彼は初めて「両王材」を書いて世間に認められ、その後三十六歳にして放浪の旅にのぼり、二十七年間というもの故郷に帰らなかった。この間のコスモポリタンとしての生活が、実に彼の社会的視野を広やかな豊かなものとし、彼の作品のテーマに一般的な普遍性を与えたわけです。で、放浪の旅のうち二十年を彼はドイツのドレスデン、ミュンヒェンに過したのですが、「ブランド」「ペエル・ギュント」以下、彼の傑作は、すべて国外で書かれました。この二十七年間の外国滞在中に、彼は五ヶ国の言葉を勉強し、読書の方面ではかなり上達しましたが、会話はその一ヶ国語も満足に話せなかったそうで、日常の用さえ弁じかねた。言葉が不便なところから足を封じられて、彼は自然書斎に閉じこもり、次から次へと創作にいそしむ機会をもったと言われております。では、そういう彼が、どうして当時最も社会の注目の的となった時事問題に肉迫していったかと申しますと、彼は非常な新聞愛読者だったそうであります。当時は、電報だの電話だの輪転機などという文明の利器がはじめて応用されて、新聞が非常な活躍を始めた時代でありますが、当時のモダンな人々について申しますと、彼らがどれほどの新聞読破力をもつかということが、その人の人間学、世間学の深さをはかる標準となっていたのだそうで、その標準の正しさを裏書きしているのが、実にイプセンであります。彼のミュンヒェン時代を知っている古老の話によりますと、その町のカフェ・マクシミリアンという喫茶店の窓の上に新聞をうず高く積み上げて、そのなかに埋っているようなイプセンの姿をよく見かけたということであります。後年クリスチャニヤに帰ってからも、イプセン老人は、頑強に面会謝絶を押し通したそうですが、しかし、毎日正午になると、悠然としてウェストミンスタア・ホテルに現われて、一杯のビールを命じ、外国新聞を取り寄せて、二時間というもの欠かさず読みふけった、さらに六時になると、もう一度、イプセンはそこへ現われて、ピョルテルというウィスキーの一種を命じ、今度は自国の新聞に読みふけった、ことに裁判所の記事に眼をとめたということであります。七十歳になったイプセンは、述懐の詞《ことば》を洩らして、長い年月、外国を渡り歩いたものは、その心の奥底では、どこにも安住の地を見出せない、故郷すら他国であるといっておりますが、彼は実にコスモポリタンであり世界人であった。このコスモポリタンとしての生涯が、しかし、作家としてのイプセンに非常な寄与をしていることは、すでに申上げたとおりであります。
思わず話が脇道へそれましたが、さて、今度、「復活の日」にかわって、帝劇の檜舞台にかけられる「ペエル・ギュント」について、ごく輪郭だけを申上げて話を終ることにいたします。
この作も、すでに言うとおり外国で書かれたので、――一つ前の「ブランド」とおなじく南イタリーに滞在したころの制作に属します。作者が知人のペエテル・ハンゼンに宛てた手紙のなかで、「ブランドの後には、必然的にペエル・ギュントが来るはずだ」と言っているのでもわかるとおり、この二つの作は密接な関係をもつもので、イプセンの抱懐する思想を裏と表とから叙述した、広い意味の二部作でありまして、両々相俟って作者の世界観の全貌を示すもので
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