て又続けた。
「名誉ある高等官の妻に向って、能くも汚名を着せたもんです。此儘黙って済されるもんですか。私は出る所へ出て明瞭明しを立てて貰《もら》います」
半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を眼に当てて大びらに泣き出した。喰い縛る歯が鋭く軋《きし》った、往来の人は足を停めだした。彼は最早堪え切れなくなったと同時に、此女が万引をしたのでは無いと信じだした。若《も》しそうでなかったら、女が斯《か》く迄強い事を云う筈《はず》が無いからである。
「さあ一緒にお出でなさい。警察署まで一緒に行きましょう。私の潔白さを立派に知らせて見せましょう。いくら探偵が商売だって、高が私立の探偵で居乍ら、何の権利がありますか」紅色の滲《にじ》んだ眼を上げた。美しいが故に物凄《ものすご》い。
最早|退引《のっぴき》ならなくなった。如何《いか》に誠意を以て謝罪しても、此処まで出て了っては駄目なのは明かである。彼は自分の失敗を誤魔化す手段は只一つしかないと思った。
「愚図々々《ぐずぐず》云わなくても、どうせ否でも連れて行って遣る。これを見ろッ。俺は警視庁の刑事だぞッ」彼は名刺を一枚取り出して女の方へ突き付けた。夫れには彼の姓名と、其脇に住所が記されてある許《ばか》りで、勿論刑事とも警視庁とも書かれて居ない。
「刑事だって巡査だって、何もしない者に疑いを懸けたり名誉を傷けたりする権利があるもんですか」
女は既《も》う泣声ではなかった。こう云い乍ら半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]に伏せた眼を上げた。彼は此時、本能的とでも云った様に其名刺を引込めた。此時、彼女も彼も殆んど同時に、今や町を巡廻して来る一人の巡査を眼の前に見付け出した。
「あの、もし」彼女はこう云い乍ら巡査の方へ歩み寄るのであった。
風が街上の塵埃《じんあい》を小さな波に吹き上げて、彼等二人を浸《ひた》し乍ら巡査の方へ走って消えた。彼も此|埃《ごみ》と共に消えたかった。否、何もかもない。彼女が巡査に云い告げて居る間に、滅茶苦茶に逃げるより外に無いと思った。彼は反対の方向へ顔を向けた。体が泳ぎ出し始めた。と、「逃げたら猶《なお》悪い」と、心の奥に何かが力ある命令を発して彼を留まらせた。動悸《どうき》が早鐘《はやがね》の様に打って頭の上まで響いて行った。
「あのもし」
彼女が再びこう云うのを聞いた。「ああ既ういけない。迚《とて》も堪らない」彼の心は泣き叫んだ。躯《からだ》を藻掻《もが》く様に振動させた。
巡査は刻々近寄って来る。六尺、五尺、四尺、ああ遂《つい》に立留った。女は媚笑《こび》を見せて巡査に雲崩《なだ》れ掛りそうな姿勢をしながら云い出すのであった。
「一寸お願い致します。此処に居る偽刑事の人が、私を附け廻して仕方がありませんの……」
巡査は鋭い眼を二人に投げた。彼は其眼の光よりも女の云い方の恐ろしさに呆然《ぼうぜん》とした。全くどうして好いのか判《わか》らなくなった。彼の眼の先へ恐ろしい獄舎の建物さえ浮んだ。
女は巡査の答など待たないでどしどし饒舌《しゃべ》り始めた。
「私、今彼処の店へ参りまして、少し許り買物を致しましたんですの。そして此処迄出て参りますと、此人が追蒐《おいか》けて来て、私が不都合な事をしたって取調べようとするんですの。私は何もそんな覚えはありませんし、こんな人から調べられる理由はないんですの。夫れが立派な刑事さんとか巡査さんとか云うんなら何ですけど、此人は只云い掛りでも云って、お金でも取ろうと云うんでしょう……」女の流暢《りゅうちょう》な言葉は上手の演説よりもなだらかに滑《すべ》り出て、息をも継がせない勢であった。夫れに構わず巡査は彼の方へ向き直った。
「君は一体何者だッ」巡査は訊《き》くのでなくて叱るのであった。慄《ふる》え切った彼には直ぐに返事が喉《のど》へ塞がった。
「初め私立探偵だなどと云ってましたが、了いには警視庁の刑事だなんて人を脅《おど》かして名刺を見せましたけど、刑事とも何とも書いて無いんですの。偽刑事が人を罠《わな》に陥《おとしい》れようと云う悪企《わるだく》みなんですわ……」
彼女が横取りして喋舌り続けた。彼は忍術か何かで消えたかった。其儘《そのまま》消えて無くなって了っても好いと思った。
「貴女に訊いて居るんじゃない」巡査は女を窘《たしな》めた。而して再び同じ問いを彼に発した。
「私は……私は別に何でもないんです。只|彼《あ》の店に行って偶然此お方を見たんです……」
「偶然だなんて皆嘘なんです。私が停車場で省線電車を降りた時から、私の後を跟《つ》け覗《ねら》って来たんです。そして探偵だの刑事などと云って……」
「貴方に訊いて居るんじゃない。……君は一体何者だと云うんだ」巡査は二人にこう云った。
彼は女の後を跟けた時から彼女が知って居たのに驚かされた。自責と之れに依って起る恐怖とで全身がわなないた。慄え声で住所と姓名を辛うじて答えた。名刺も云われる儘に出して見せた。初め探偵と称した事の偽も、警視庁刑事と偽った事も女の云った通り白状した。叱られる儘に只平謝罪に謝罪った。彼は疾《とっ》くに既うこうして謝罪りたかったのであったが、流石《さすが》に女の前では出来難《できにく》かった間に、ずんずんと女に引摺《ひきず》られて嘘許り云ったのであった。其処へ持って来て巡査は飽迄《あくまで》彼を追窮した。自分の罪を自覚し自責して居る彼は、彼女が云った様に停車場から女の後を跟けた事から白状した。白状しては叱られた。叱られる度毎に謝罪しては又白状した。
彼は彼女が半襟を袂《たもと》へ抜取った様に見受けた事と、便所の中へ這入って包紙の中へ入れたらしい事とを語った時、女は横合から屡々《しばしば》口を出した。持って居る包みを開いて二人の前へ差し出した。包紙の下には一反の銘仙がある許りであった。其金の請求票も見せられた。袂の中に半襟が無い事も明白と成った。彼は散々に罵倒を浴せられては謝罪を繰返して居た。大罪人である事が今ははっきり自分に判って来た。罰せられるであろうと云う事も朦気《おぼろげ》乍ら判って来た。夫れは諦めなければならないものであった。
「オイッ、一寸待てッ」
巡査の声で彼は大きな恐怖の鉄槌《てっつい》に打たれた。一瞬間の後巡査の顔を見た。巡査は全く外《ほか》の方を見て居った。其眼の先を追った時、其処には中年の、召使とでも云った様な女が途《みち》の脇を小さくなって歩いて居た。
「ハイッ」其女は電気にでも打たれた様に立ち止った。
「此方へ来いッ」巡査は云った。
此処に二人を取調べて居乍ら、巡査の心持には余裕があるのに驚かされた。
「私は何も知りません」中年の女は体を横に撚《ね》じって胸の辺りを隠す様にして行き過ぎようとした。
「待たんかッ」巡査の声は鋭くなった。
「此隙に!」彼の心には逃走の意志が閃《ひらめ》いた。が、次の瞬間に彼は住所を知らした事を思い出した。
中年の女はずるそうな眼をし乍ら近寄って来た。巡査は其方へ向き直った。
「お前は此万引した女から半襟を受取って持って居るだろう。お前達は此先の停留場で落ち合う約束だったろう。所が此女が余り遅いので様子を見に来たに相違ない。所が其女は私の前で取調べを受けて居るのを見た。これは一大事と見て取って近寄って来た。所が此万引した女が幾度か眼で合図した。此処へ来なくても好いと云う位の処であったろう。そこで折角通り蒐ったが行き過ぎようとした。そうだろうが。夫れに相違はなかろうが。ええッ。だが一体お前は此女の召使なのか。夫れとも只共犯だと云うのかッ」
巡査の云う所は意外極まるものであった。彼には何が何だか判らない。只警察へ三人で引立てられて行った。其辺には足を止めて見て居る十人近くの野次馬が居た。最も神妙な罪人は栗屋君であるとは誰の眼にも同じく映じて居た。
「どうも済みません」
と、こんな事を栗屋君は幾度も繰返し乍ら巡査に跟いて行った。
「奥さんは何もご承知ないんです。本統に何もご承知ないんです。奥様はお可哀想です。警察へ行くなら私と此人と丈けが行きましょう」
中年の女は幾度か足を留めて巡査に云った。美人は何とも云わなかった。泣く丈けが何かを語って居る丈けであった。
[#地付き](一九二六年二月)
底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社
2002(平成14)年2月20日初版1刷発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年2月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2009年1月20日作成
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