偽刑事
川田功
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)或《ある》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)此婦人|丈《だ》け
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]
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或《ある》停車場で電車を降りた。長雨の後冷かに秋が晴れ渡った日であった。人込みから出るとホームの空気が水晶の様に透明であった。
栗屋《くりや》君は人波に漂《ただよ》い乍《なが》ら左右前後に眼と注意とを振播《ふりま》き始めた。と、直《す》ぐ眼の前を歩いて居る一人の婦人に彼の心は惹付《ひきつけ》られた。形の好い丸髷《まるまげ》と桃色の手絡からなだらかな肩。日本婦人としては先《ま》ず大きい型で、腰の拡がったり垂れたりして居ない、小股の切れ上った恰好《かっこう》は堪《たま》らなく姿勢を好く見せた。足の運びの楽しげで自由であるのも、滅多に見られない婦人だった。
早く追越して顔を見ると云《い》う事が、直《ただ》ちに彼の任務と成って了《しま》った。郊外に住って居る彼が、時々こうやって下町へ出て来るのも、こんな美しい刺激で心を潤したい為めであった。
一眼見た。こんな時彼は既《も》う見得も外聞も考えない。貪《むさぼ》る様に覗《のぞ》き込んだ。彼の心は叫びを上げた。「素敵だッ」と。湯の中へ寒暖計を投げ込んだ様に、彼の満足は目盛の最高頂へ飛び上った。何と云う気高い、何と云う無邪気な……彼は持ち合して居る有り丈《た》けの讃辞を投げ出そうと試みた位であった。
併《しか》し其後では必ず嫉妬心と憎悪とが跟《つ》いて来る。夫《そ》れが他人の夫人であるからだ。彼は平常《いつも》の通り勝手な想像を胸に描いて此心持を消そうとした。
「此女は外に恋して居る男があるんだ」
「否、此女は見掛けによらぬ淫婦なんだ。悪党なんだ」
こんな風に考えて見ても、此婦人|丈《だ》けには其どれもが当嵌《あてはま》って呉《く》れない様な気がした。
彼は女を遣《や》り過ごして其後を跟け始めた。女は、彼が仮令《よしんば》もっと露骨にこんな事を遣って見せても、恐らくは少しも気に留めないだろうと思われる程、天使的の自由さと愉快さとで歩みを運んで居る様であった。彼以外の人々は、此女に少しも注意を払って居ないらしく、夫々《それぞれ》自分等の行く可き方向へ足を急がせた。併《しか》し電車や自動車などは彼女の為めに道を開いて居る様で、彼女は自由に何の滞《こだわ》りもなく道を横切って其等を切り抜けた。後に続く彼は又、忌々《いまいま》しい程交通機関や通行人に妨げられた。彼女を見失うまいと焦り乍《なが》ら、
「ええッ畜生ッ。犬迄が人の邪魔をしやがる」
と、彼は口の内でこんな事を云って、水溜《みずたま》りを飛越えたりして居った。それでも之《こ》れは愉快な遊戯には相違なかった。
彼等の前に大きなデパートメントストーアーが見出された。屋上の塔では旗が客を招いて居った。層楼の窓は無数の微笑を行人に送った。彼女は役人が登庁する時の様に、何の躊躇《ちゅうちょ》もなく其店へ姿を消して了った。栗屋に執って之れは好都合であった。此店には暇過ぎる彼を終日飽かせない程の品物を並べてあった。此中へ彼女が這入《はい》ってさえ居れば、幾度でも彼女と邂逅《かいこう》する事も出来るのであった。彼は落着いて店の中を歩いた。卓《テーブル》の上には積木細工の様に煙草を盛上げたり、食料品の缶詰が金字塔《ピラミッド》型に積重なったりして居た。彼は其辺を一ト渡り見渡して、女の方へ眼を移した。が、某所《そこ》には女の影も見られなかった。彼女に匹敵する丈けの美人も見付からなかった。
彼は大理石で張詰めた壁に沿って、コルク張の階梯《かいてい》を軟かく踏んで二階へ急いだ。彼女はエレベーターで天上でもしたのか、此処にも姿は見出せなかった。彼は本気に慌てて三階へ駈け昇った。身形《みなり》が別に派手でも何でもないが、彼女を見付け出すのは鶏群中の雄鶏《おんどり》を見出す程容易であった。彼女の手には反物《たんもの》らしい紙包の買物が既に抱かれて居った。彼女は今|半襟《はんえり》を一面に拡げた大卓の前で、多くの婦人達に混って品の選択を始めて居た。彼は既製洋服を吊した蔭に立って覗き始めた。美しい婦人達の大理石の様な滑《なめら》かな手で、蛇の様に重みのある縮緬地《ちりめんじ》が引揚げられたり、ぬらぬらと滑り落ちて蜷局《とぐろ》を巻いたりして、次から次へと婦人達の貪る様な眼で検閲されて居るのである。若い美しい女性の華かな姿が正面背面又は横顔を見せて居るが、彼女程輝きを持って居る女は見られなかった。彼は芝居でも見て居る様な熱心さで彼女の細かい動作を一つも見逃さない様に努めた。一|掴《つか》みの半襟地を窓明りに翳《かざ》しては元の位置へ置き、又他の一|掴《つかみ》を取上げて同じ事を繰返して居た。と、或刹那、彼は不思議な事を見付け出した。夫れは、幾枚かの半襟を取上げて窓に翳す時、重ねた両端の二枚を裏返して見る刹那。真中の一枚をすっと抜取って彼女の袖へ入れたのであった。彼が自分の眼を疑ったのは勿論《もちろん》である。併し其早業は只一度で無くて幾度も繰返されたのを確実に見た。彼は自分自身がそんな事をして居る様な驚きに出食わした。顔が火照《ほて》って耳ががァんと鳴って血の凝りで塞《ふさ》がれた様な気がした。
「ああァ」
思わず深い溜息《ためいき》が漏れた。而《そ》して今一度眼を瞠《みは》って彼女を瞶《みつ》めた。依然彼が後を跟けて来た彼《か》の美人以外の誰でもない。余りのなさけなさに涙が腹の中で雨の様に降った。それにも拘《かかわ》らず、此時急に彼女に対して強い真実の愛情が湧き起って来た。
美の前に何の罪があろう。愛の前に何の不徳があろう。只在るものは罪悪や不徳を超越した美と愛とだ。彼は只、誰もが彼女の遣った行為に気付かずに居て呉れと心に念ずる丈けであった。
「見よ、あの通り彼女の顔は晴やかに輝いて居るではないか。あの通り美しく無邪気で天使の様に尊いではないか」彼は心の中で呟《つぶや》いた。
事実、彼女は何のこだわりも無く、自然過ぎる様な楽しい態度を示して其処の卓を離れた。彼は次に起る事が何であるかを想像する力を失って、手品を見せられて居る人の様な眼を以《もっ》て彼女に近付いた。と、彼女の持って居る反物の包紙は、封緘紙《ふうかんし》が外れて居る事に気が付いた。恐らく未《ま》だ糊《のり》が生々しい時に外したのであろう。而して今引抜いた半襟が今に此中に巧みに入れられるであろう。彼は夫れに気が付いた時、一種の興味さえ起って来るのであった。寧《むし》ろ彼女の成功を讃美したい様な気持にさえ成って来た。彼女は、婦人用便所と札を掲げた方へ悠々と這入って行った。
彼は嘗《かつ》て新聞で見た事があった。夫れは、こうした大きなデパアトメントストーアーで、頻々《ひんぴん》と起る万引の中で、婦人は大抵反物類を窃取するが、之れを持ち出す前には便所に行って始末すると云うのであった。これを思い出すと又しても浅間しいと思う気持に成った。彼女が再び出て来た時、持って居た買物は風呂敷に包まれて居た。
店を出て四つ角を一つ通り越すと、大きな銀行の建物があった。周囲は広い余地を残し、鈴懸《すずかけ》の木立から思い出した様に枯葉が零《こぼ》れて居た。垣根と云うのは石の柱と、其を結び付けて垂れ下った鉄鎖がある丈けで、人の出入も自由であった。彼女が其処へ差蒐《さしかか》った時、彼は直ぐ其後へ追付いて居た。此儘《このまま》黙って過ぎれば只路傍の人として終って了うのである。併も彼は大なる秘密を握って居る。何とか利用しないでは置けないと云う気に成って了った。彼は一ト足|歩度《あゆみ》を伸ばすなり、妙に好奇心の加わった空元気を出して呼びかけた。
「一寸《ちょっと》お尋ね致しますが」と云った其瞬間、彼は其後をどう云う可《べ》きかに付いて余り不用意である事に気が付いた。後悔の雲がぱっと頭に拡がった。聞えなければ可《い》いがと云う願望も同時に起った。併し其等は一切無益であった。彼女は歩度を緩めて彼を振向いた。足を停《と》めた。最早取返しは付かなくなった。狼狽《ろうばい》の余り却《かえっ》て誤間化《ごまか》す事が出来なかった。
「貴女は今|彼処《あそこ》の店で買物をなさった様ですねえ」
「致しましたが、夫れがどうだと被仰《おっしゃ》るんです」
女は少しも驚かないのみか、寧ろ待ち望んででも居た様な落着方であった。併し、気の故《せい》か彼女の美しい輝《かがやき》の顔に、不安の影が颯《さっ》と通った様に思えた。
「いや、別にどうしたと云う訳でもありませんが……これは甚《はなは》だ失礼な事かも知れませんが、少しお間違いをなさって被居《いらっしゃ》るんじゃないかと思ったもんですから、一寸お尋ねして見たいと思った丈けなんです」
しどろもどろではあったが、貴婦人に対する礼儀は失って居ない積《つも》りで云ったのであった。
併し之れ丈け云って了うと、今迄持って居た探偵眼を誇りたいと云う気分や、こうした美しい婦人の秘密の鍵を握って居ると云う好奇心や、何か奇蹟的に邂逅しそうな卑劣な野心などは、此時全く姿を潜《ひそ》めて了って、依然不安と後悔の恐ろしい様な予感とで心は乱れて居た。
「私が何か不都合でもしたと被仰るんですか」
彼女は忽《たちま》ち興奮した。険しい眼には挑戦の意気込みが現われた。こうなると、先刻《さっき》自分が明瞭《はっきり》と見極めた事実すら、何だか曖昧《あいまい》なものに成った様な気もしだした。
「いやそう云う訳ではないんですが……」
言葉に窮した。初めから全然取消して了いたくなった。自分で自分の心を脅かして恐怖心を募らせ出した。併し女は依然として興奮して居った。
「貴下《あなた》は一体どなたです。無垢《むく》な人間を捉えて、勝手に人を傷《きずつ》ける様な権利でもお持ちなんですか」
軽蔑した様な光が眼にあった。空間を通して圧迫して来る力を感じた。夫れが彼に反抗心を強《し》いて居るのであった。
「私は探偵です」捨鉢に成った彼は又しても軽卒にこんな事を云って了った。これも又直ちに後悔しなければならなかった。
「探偵と云っても私立探偵社の者です」
女は少しも驚いた様な顔を見せなかったが、心の裡《うち》には不安と夫れを打消す心とが相次で起ったろうと想像された。
「あの店から頼まれたとでも云うんですか。よござんす。一緒に参りましょう」
興奮し切った女は後へ戻ろうとした、これにも少からず彼は狼狽させられた。
「否《いや》ッ、決して頼まれたと云う訳じゃないんです。一寸お待ち下さい」
彼は掌《てのひら》で空間へ印を捺《お》す様にして押し止めた。
「いいえ。そうは行きません。何の関係も無い貴下が、知らない他人に勝手な疑いを掛けた訳でもありますまい。参って明しを立てましょう。こんな事は疑われた丈けでも取返しの付かない不名誉です。貴下は傷いた私の名誉を明瞭に恢復なさらなければなりますまい」
彼はいっそ平謝罪《ひらあやま》りに謝罪ろうか、夫れとも逃げ出して了おうかと心に惑った。孰《いず》れにしても彼は悲しく成って来た。
「まあ貴女そう興奮なさらないで下さい。私は決して疑ったの何のと云う訳じゃ無いんですけど、新米の私が探偵研究時代に於ける単なる一つの出来事なんですから」
「研究ですって? 単なる一つの出来事ですって? 女だと思って人を莫迦《ばか》にするのも程があります。何の証拠も無いのに無垢の人間に疑いを掛けて、研究だとは何と云う云い方です。単なる一ツの出来事とは何です」声は段々|癇高《かんだか》い泣声に成って行った。瞼《まぶた》を潤おす涙も見えた。併も女は泣く事に依て一層勇気付けられ、一層雄弁に成るのであった。「口惜《くや》しいッ」独語《ひとりごと》の様にこう云って置い
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