き》自分が明瞭《はっきり》と見極めた事実すら、何だか曖昧《あいまい》なものに成った様な気もしだした。
「いやそう云う訳ではないんですが……」
言葉に窮した。初めから全然取消して了いたくなった。自分で自分の心を脅かして恐怖心を募らせ出した。併し女は依然として興奮して居った。
「貴下《あなた》は一体どなたです。無垢《むく》な人間を捉えて、勝手に人を傷《きずつ》ける様な権利でもお持ちなんですか」
軽蔑した様な光が眼にあった。空間を通して圧迫して来る力を感じた。夫れが彼に反抗心を強《し》いて居るのであった。
「私は探偵です」捨鉢に成った彼は又しても軽卒にこんな事を云って了った。これも又直ちに後悔しなければならなかった。
「探偵と云っても私立探偵社の者です」
女は少しも驚いた様な顔を見せなかったが、心の裡《うち》には不安と夫れを打消す心とが相次で起ったろうと想像された。
「あの店から頼まれたとでも云うんですか。よござんす。一緒に参りましょう」
興奮し切った女は後へ戻ろうとした、これにも少からず彼は狼狽させられた。
「否《いや》ッ、決して頼まれたと云う訳じゃないんです。一寸お待ち下さい」
彼は掌《てのひら》で空間へ印を捺《お》す様にして押し止めた。
「いいえ。そうは行きません。何の関係も無い貴下が、知らない他人に勝手な疑いを掛けた訳でもありますまい。参って明しを立てましょう。こんな事は疑われた丈けでも取返しの付かない不名誉です。貴下は傷いた私の名誉を明瞭に恢復なさらなければなりますまい」
彼はいっそ平謝罪《ひらあやま》りに謝罪ろうか、夫れとも逃げ出して了おうかと心に惑った。孰《いず》れにしても彼は悲しく成って来た。
「まあ貴女そう興奮なさらないで下さい。私は決して疑ったの何のと云う訳じゃ無いんですけど、新米の私が探偵研究時代に於ける単なる一つの出来事なんですから」
「研究ですって? 単なる一つの出来事ですって? 女だと思って人を莫迦《ばか》にするのも程があります。何の証拠も無いのに無垢の人間に疑いを掛けて、研究だとは何と云う云い方です。単なる一ツの出来事とは何です」声は段々|癇高《かんだか》い泣声に成って行った。瞼《まぶた》を潤おす涙も見えた。併も女は泣く事に依て一層勇気付けられ、一層雄弁に成るのであった。「口惜《くや》しいッ」独語《ひとりごと》の様にこう云って置いて又続けた。
「名誉ある高等官の妻に向って、能くも汚名を着せたもんです。此儘黙って済されるもんですか。私は出る所へ出て明瞭明しを立てて貰《もら》います」
半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を眼に当てて大びらに泣き出した。喰い縛る歯が鋭く軋《きし》った、往来の人は足を停めだした。彼は最早堪え切れなくなったと同時に、此女が万引をしたのでは無いと信じだした。若《も》しそうでなかったら、女が斯《か》く迄強い事を云う筈《はず》が無いからである。
「さあ一緒にお出でなさい。警察署まで一緒に行きましょう。私の潔白さを立派に知らせて見せましょう。いくら探偵が商売だって、高が私立の探偵で居乍ら、何の権利がありますか」紅色の滲《にじ》んだ眼を上げた。美しいが故に物凄《ものすご》い。
最早|退引《のっぴき》ならなくなった。如何《いか》に誠意を以て謝罪しても、此処まで出て了っては駄目なのは明かである。彼は自分の失敗を誤魔化す手段は只一つしかないと思った。
「愚図々々《ぐずぐず》云わなくても、どうせ否でも連れて行って遣る。これを見ろッ。俺は警視庁の刑事だぞッ」彼は名刺を一枚取り出して女の方へ突き付けた。夫れには彼の姓名と、其脇に住所が記されてある許《ばか》りで、勿論刑事とも警視庁とも書かれて居ない。
「刑事だって巡査だって、何もしない者に疑いを懸けたり名誉を傷けたりする権利があるもんですか」
女は既《も》う泣声ではなかった。こう云い乍ら半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]に伏せた眼を上げた。彼は此時、本能的とでも云った様に其名刺を引込めた。此時、彼女も彼も殆んど同時に、今や町を巡廻して来る一人の巡査を眼の前に見付け出した。
「あの、もし」彼女はこう云い乍ら巡査の方へ歩み寄るのであった。
風が街上の塵埃《じんあい》を小さな波に吹き上げて、彼等二人を浸《ひた》し乍ら巡査の方へ走って消えた。彼も此|埃《ごみ》と共に消えたかった。否、何もかもない。彼女が巡査に云い告げて居る間に、滅茶苦茶に逃げるより外に無いと思った。彼は反対の方向へ顔を向けた。体が泳ぎ出し始めた。と、「逃げたら猶《なお》悪い」と、心の奥に何かが力ある命令を発して彼を留まらせた。動悸《どうき》が早鐘《はやがね》の様に打って頭の上まで響いて行った。
「あのもし」
彼女が再びこう云うのを聞いた。「ああ既
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
川田 功 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング