ん》は三つも溜めちまう。震災後、無理算段で建てた長屋は焼かれる、類焼者には、敷金を一時に返さにゃならず。夫に火災保険が、先々月で切れて居たのです」
 と足袋屋の主人、ベソをかいて零した。
 壁一重隣りに住んで居た、類焼者《やけだされ》の、電気局の勤め人の云うには、
「細君は悪い人じゃないが、挨拶の余り好く無い人で、虚栄坊《みえぼう》の方だ。夫婦喧嘩は、始終の事で珍しくも無いが、殊更《とりわけ》此頃亭主が清元の稽古に往く師匠の延津《のぶつ》○とかいう女《ひと》と可笑《おかし》いとかで盛に嫉妬《やきもち》を焼いては、揚句がヒステリーの発作で、痙攣《ひきつ》ける。斯様《こう》なると、男でも独りでは、方返しがつかないので、此方へお手伝御用を仰《おお》せ付かる。
 火の出る二三十分前にも、亦《また》烈《はげ》しく始まったが、妙にパッタリ鎮まったとは思って居ました。
 夫に、又聴きだから、詳しくは知らないが、慥《たし》か去年の暮、お時さんに生命保険をつけた[#「お時さんに生命保険をつけた」に傍点]ッて事です」
 署長の睨んだのが、亭主の勝次郎だことは、明かである。従って其調べが、寸分の弛《ゆるみ》もなく、厳重に行われたことは勿論だ。
 勝次郎は、中肉、寧ろノッポの方で、眼付きは剛《きつ》いが、鼻の高い、浅黒い貌《かお》の、女好きのする顔だった。
 声は少し錆《さび》のある高調子で、訛《なまり》のない東京弁だった。かなり、辛辣《しんらつ》な取調べに対して、色は蒼白《あおざ》めながらも、割合に冷静に、平気らしく答弁するのが、復《また》、署長を苛立《いらだ》たせた。
「此奴中々図々しいぞ、何か前科があり相だ。早速取調べさせよう」
 と署長は考えた。
 然《しか》し本人の答弁は、キッパリして居た。
「お時をドウするなんて事は、断じて有りませんし、そんな事は考えた事も有りません。
 夫れァ、喧嘩も仕ました、常平生《つねへいぜい》、余り従順《おとな》しく無い奴で、チットは厭気のささないことも無かったんです。何しろ、嫉妬焼きで、清元の師匠と、変だなんて言いがかりを為るのが余り拗《くど》いので、今夜も殴《は》り倒して遣りました。一体、今夜は、大師匠(延津○の師匠|喜知太夫《きちだゆう》)が、ラジオで、『三千歳《みちとせ》』を放送すると云うんだし、丁度今、夫れを習って居るんだから、聞き外《はず》
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