思うがいいぜ。」
「だって、すこしも」と家内はすましたもので、――「空恐ろしいことなんかありませんわ。何しろわたしは、二人ともよく知っていますもの。弟さんはあの通り立派な紳士だし、マーシャはマーシャで、あの通り可愛いらしい娘ですしさ。おまけに二人は、ああしてお互いの幸福のため一生けんめい尽しますって約束した以上、きっと約束は守るにちがいないわ。」
「な、なんだって!」と、僕はわれを忘れて情けない声を立てた、――「あの二人は、もう約束までかわしたのかい?」
「ええ」と家内は答える、――「そりゃあ、まだ口に出してこそ言わなかったけど、そこは以心伝心というものよ。二人とも趣味も好尚もぴったり合ってるわ。だからわたし、今晩弟さんと一緒に先方へ出かけていって来ますわ。――弟さんはきっと老人夫婦の気に入るにちがいないし、その先は……」
「へえ、その先は?」
「その先は、二人でいいようにすればいいわ。ただね、余計な口を出さないで下さいよ。」
「いいとも」と僕はいう、――「いいとも。そんな馬鹿馬鹿しい問題に口を出さずにいられるのは、すこぶる有難い仕合わせだよ。」
「馬鹿げたことなんかになるもんですか。」
「それは結構。」
「とてもうまく行くにきまってるわ。幸福な夫婦ができあがってよ!」
「ありがたい仕合わせだな! ただしだね」と僕は言う、――「弟のやつもお前も、これだけは一応心得ておいても無駄じゃあるまいが、マーシェンカの親父さんは、世間に誰知らぬ人とてない金持の握り屋だぜ。」
「それがどうかしましたの? 残念ながらわたしも、その事だけは反対の余地はありませんけど、かといって別だんあのマーシェンカが、立派な娘さんでなくなるわけでも、立派な嫁さんになれなくなるわけでも、ないじゃありませんか。あなたは、きっと忘れておしまいになったのね、ほら、二度も三度もわたしたちが論じ合ったあの事を。ねえ、思いだしてごらんなさいな、――トゥルゲーネフの小説に出てくる立派な女たちは、選りに選ってみんな、すこぶる俗っぽい両親を持っているじゃありませんか。」
「いや、僕の言うのはそんな事じゃないんだ。いかにもマーシェンカは、実に立派な娘だよ。ところが考えてごらん、あの親父と来たら、上の二人の娘を嫁にやるとき、婿さんを二人とも一杯くわせて、びた一文つけてやらなかったんだぜ。――マーシャにだって、一文もよこさないに決まってるよ。」
「どうしてそれが分りますの? あの親父さんは、あの子が一ばん可愛いのよ。」
「いや、おっ母さんや、まあたんと皮算用をしたけりゃしなさいだがね。嫁にやってしまう娘にたいするあの連中の『格別の』愛情なるものが、一体どんなものだか、ちゃんと分っているじゃないか。みんな一杯くわされるんだよ! それにまた、あいつにして見りゃ、一杯くわさずに済ますわけには行かんのさ、――何しろそれが、あの男の立ってる土台なんだからねえ。世間のうわさじゃ、あの男が財産を築きあげたそもそもの始まりは、非常な高利で抵当貸しをしたことだというじゃないか。人もあろうにそんな男から、お前は愛情だの気前のよさだのを捜し出そうとかかっているんだよ。参考までに言っておくが、上の娘たちの婿さんは、二人とも一筋縄ではいかんなかなかの曲者なんだ。それでいながらまんまとあの男に一杯くわされて、今日じゃ犬猿もただならざる仲になっているとすりゃ、ましてやうちの弟なんぞは、何しろ子供の頃からおっそろしく御念の入った弱気な奴だから、指をくわえて追っ払われることなんか、朝飯まえだぜ。」
「一たいなんのことですの?」と家内は聞きかえす、――「その指をくわえる、って仰しゃるのは?」
「まあ、おっ母さんや、そらっとぼけなさんな。」
「いいえ、そらっとぼけてなんかいませんわよ。」
「じゃお前、知らないのかい、『指をくわえる』ってことを? マーシェンカにはびた一文よこすまいってことさ、――困るというのは、つまりそこだよ。」
「まあ、そんな訳でしたの!」
「うん、その通りさ。」
「その通り、全くその通りだわ! そりゃまあ、そんなことかも知れませんけど、ただわたしはね」と家内はいつかな敗けてはいず、――「たとえ持参金はなかろうと、ちゃんとした嫁さんを貰うことが、あなたのお考えだと『指をくわえる』ことになろうとは、ついぞ今まで思いも及ばなかったわ。」
どうです、いかにも女らしい可憐な筆法、ないし論理じゃありませんか。ひらりと体をかわす拍子に、お隣づきあいの誼みで、ちくりと一本くるんですからねえ。……
「僕はなにも、自分のことをとやかく言うんじゃないぜ。……」
「いいえそうです、じゃ一体なぜ……?」
「いやはや、そりゃ酷すぎるぜ、ねえ|お前《マ・シェール》!」
「何がひどすぎますの?」
「なにが酷すぎるって、僕が自分のことなんか一言も言やしないのにさ。」
「でも、考えてらしたわ。」
「いいや、だんぜん考えてもいなかった。」
「じゃ、想像してらしたわ。」
「なにを、ばかな。夢にだって想像していなかったよ!」
「まあ、なんだってそんな金切り声をお立てになるの?」
「べつに金切り声なんか立てやしないさ!」
「だって『なにを』だの……『ばかな』だのって。……そりゃ一体なんですの?」
「それはお前、お前の言うことを聞いてると、ついむしゃくしゃしてくるからさ。」
「へえ、それで分ったわ! そりゃわたしが金持の娘で、持参金をかかえて来たら、さぞよかったでしょうとも……」
「げッ、むむむゥ!……」
といった次第でね、僕はとうとう嚇として、亡くなった詩人トルストイの言草を借用すれば、『初めは神の如く、終りは豚の如し』の体たらくになっちまったのさ。僕はさも憤然とした様子をして、――けだし正直のところ、あらぬ濡衣をきせられた感じだったからね、――頭をふりふり、くるりと相手に背を見せると、書斎へ引揚げてしまった。それも、いざ後ろ手にドアをしめる段になって、なんとしても腹の虫がおさまらず、――わざわざドアをまた開けて、こう言ってやったものだ、――
「おい、なんぼなんでも卑劣だぞ!」
すると家内は澄まし返って、
「|憚り様《メルシ》、あなた。」
※[#ローマ数字3、1−13−23]
「ええ、くそ、なんてざまだい! おまけにそれが、とっても幸福な、ほんの一瞬の間だって波風ひとつ立った例しのない、夫婦生活四年間のあげくの果てと来ていやがる!……忌々しい、業っ腹だ――やり切れん! なんて馬鹿げたこったろう。しかも事の起りはそもそも何だ!……みんな弟のやつのせいじゃないか。おまけにこの俺が大人気もなく、こんなにカンカンに息み返るとは、なんてざまだい! 弟のやつはもうちゃんと一人前の大人で、どこの誰が好きになろうと、どこの誰を嫁にもらおうと、じぶんで判断する資格があるわけじゃないか?……やれやれ、今どきじゃもう、生みの息子にだってそんな指図をするのは流行らんというのに、いまだに弟は兄貴の言いなり放題にならなきゃならんというのかい。……第一そんな監督をする権利がどこにある?……そもそも、この俺が、これこれの嫁をもらえば行末はこれこれになるなんて、確信をもって予言できるような、千里眼になれるとでもいうのかい?……マーシェンカはまったく素晴らしい娘だし、うちの女房だってなかなかいい女じゃないか?……おまけにこの俺だって、有難いことに、世間から後ろ指をさされたことはない。だのにその俺たち夫婦が、四年もつづいた幸福な、束の間だって波風ひとつ立った例しのない暮らしのあげくに、こうして熊公お鍋みたいに悪態の吐《つ》き合いをしちまったんだ。……それというのも元をただせば、一向くだらん、たかが他人の馬鹿馬鹿しい気まぐれからじゃないか。……」
僕はとたんに吾ながら穴へでもはいりたいほど恥かしくなる一方、家内が可哀そうで可哀そうでならなくなった。けだし、家内の吐いた屁理窟なんかはきれいに棚へ上げて、何から何まで自分一人のせいにしちまったわけだね。まあ、そうした侘びしくも遣瀬ない気分で、僕は書斎のソファの上で、ぐっすり寝込んじまったという次第さ。ほかならぬわが最愛の女房が手ずから縫ってくれた、ふかふかした綿入れの部屋着にくるまってね。……
しなやかな細君の手で、良人のために縫いあげられた着心地のいい不断着というやつは……全くへんに情にからんでくる代物だよ! じつに工合がいいし、じつに懐かしいし、おまけに折よくにしろ折あしくにしろ、まざまざとわれわれ男子の罪悪を思いださせてくれもするし、いやそれのみか、縫ってくれた白い柔手《やわで》までが、まざまざと思いだされて、いきなりそれに接吻して、俺が悪かった、赦しておくれ――と言いたくなっちまう。
「赦しておくれ、ねえお前、さっきはついお前の言葉で、むらむらっとしてしまったが。もうこれからは気をつけるからね。」
そいつがまた、白状するとね、一刻も早く謝まりたくって矢も盾もたまらず、その拍子につい目が覚めちまって、起きあがりざま、書斎からのこのこ出ていったものさ。
見ると――家じゅうまっ暗がりで、シンとしている。
「奥さんはどこだい?」
って女中にきくと、
「奥さまは弟さまとご一緒に、マリヤ・ニコラーエヴナのお父様のところへ、お出ましになりました。只今すぐお茶をお入れしますから」という返事だ。
『こりゃ驚いた!』と僕は思ったね、――『するとつまり、あいつとうとう我を張りとおすつもりだな――相変らず弟のやつを、マーシェンカと一緒にしようっていうんだな。……ええ、どうなりと勝手にするがいい。そしてマーシェンカの狸親父に、上の二人の婿さん同様、まんまと化かされてみるがいい。いいやどうして、その段じゃ済むまいぜ。あの婿さんは二人とも相当な曲者だったが、うちの弟ときた日にや、あの通りの正直権現、弱気地蔵だからなあ。まあいいさ、――弟のやつも女房のやつも、たんと瞞くらかされるがいいや。月下氷人《なこうど》という役がどんなに難かしいものか、第一課でうんと手を焼いてみるがいいや。』
僕は女中の手からお茶のコップを受けとると、坐りこんで訴訟書類に目をとおしはじめた。それは明日から裁判のはじまる事件で、僕にとってはちょっと骨の折れる仕事だったのだ。
調べ物につい気をとられて、気がついた時はもう真夜中をだいぶ越していたが、家内と弟とは二時という時刻に、二人ともすこぶる御機嫌さんで帰ってきた。
家内が言うことにや、――
「いかが、コールド・ビーフを、葡萄酒に水をあしらって召しあがらないこと? わたしたちは、ヴァシーリエヴナさんところで、お夜食をすませて来ましたの。」
「いや」と僕、――「御好意は忝けないがね。」
「ニコライ・イヴァーノヴィチさんたら、すごく気前を見せてね、わたしたちすっかり御馳走になっちまったわ。」
「なるほどね。」
「ええ、――とても愉快で、時のたつのも忘れたほどでしたの。おまけにシャンパンまで出たわよ。」
「そりゃよかった!」と僕は答えて、さて肚の中でこう考えた、――『ははあ、あのニコライの悪党め、うちの弟の御面相から、一目でこりゃいい鴨だわいと見破りおって、腹に一物の御馳走ぜめとおいでなすったな。まず当分は、いずれ縁談が本ぎまりになるまで、ちやほやしておいて、それから矢庭に、――爪牙をあらわそうって寸法だな。』
その一方、家内にたいする僕の感情は又ぞろ悪化して、さっきは別に悪気はなかったんだから赦しておくれ――なんていう口上[#「口上」に傍点]は、今更おかしくって言い出せなくなった。いや、それどころか、もし僕にこれという差迫った用事もなくて、この御両人がおっぱじめた恋愛遊戯の一進一退に、いちいち茶々を入れられるほどの閑人だったとしたら、てっきり僕は又しても堪忍ぶくろの緒を切らして、何かしら余計な口出しをして、とどのつまり、出ていけ出ていきます――ぐらいの騒ぎになったに相違ないんだが、幸いにして僕はそれどころじゃなかった。つまり、さっきも言ったその訴訟事件というのが、ひどく手ごわい代物でね、僕た
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