へ投げこんで、そう報告すると、――「へ、呆れたもんだ!」
「何をお前さん呆れたんだい?」
「だって、おかみさんが十五貫もあるなんてさ、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ。あっしは、こう思うんですがね、――よしんばまる一んち、おかみさんを両手で抱《だ》っこしていろって言われたところで、どだいもう苦になるどころか、ただもうぞくぞく嬉しいばかりだろうってね。」
「ひどいよ、まるでわたしが人間じゃないみたいにさ、ええ? そのくせ、いざ抱《だ》っこしてみたところが、やっぱしへとへとになったってね」と、絶えて久しくそんな軽口を耳にせずにいたカテリーナ・リヴォーヴナは、ぽっと耳の根を紅らめながらひとまずそうやり返したが、と同時にむらむらっと、思いっきり陽気な無駄口をたたいてみたい、冗談口の限りをつくしてみたいと、そんな慾望が湧いたのである。
「とんでもねえ! この世の極楽だというアラビヤくんだりまでだって、立派に抱いて行ってお目にかけまさあ」とセルゲイは、こっちも負けず言い返した。
「お前さんの考えは、なあ若えの、どうやらまっとうじゃねえぜ」と、粉を袋へ移していた小百姓が言った、――「おいらにさ、なんの目方がかかるもんかね? 目方のかかるのは、第一おいらの肉体《からだ》かよ? おいらのからだはな、なあ若えの、秤にかけりゃ一匁だって掛かることじゃねえ。腕っぷしだよ、目方がかかるなあ、俺らの腕っぷしだよ――からだなんぞじゃねえ!」
「そう言や、わたしも娘のころは、これでもとても腕っぷしが強かったものよ」と、またしても自分を制しきれなくなったカテリーナ・リヴォーヴナが言った。――「男にだってめったに負けなかったほどだわ。」
「へえ、そういうことなら一つ、お手をちょいと拝借と行きやしょうかね」と、美男の若い衆が言った。
カテリーナ・リヴォーヴナはちょっとたじろいだが、とどのつまり手を差しだした。
「だめよ、指環をとらなくちゃ、痛いじゃないの!」と、セルゲイが力まかせに彼女の手を握りしめたとき、カテリーナ・リヴォーヴナは悲鳴をあげて、あいている方の手で男の胸へお突きを喰らわせた。
若者はお内儀の手をはなすと、お突きを喰らったはずみで、たじたじと二あしほど横っ飛びにすっ飛んだ。
「そら見たことかい、それでやっとお前さんにも、女の底力がわかったというもんさ!」と、例の小百姓が頓狂な音《ね》をあげた。
「いんや、なかなかそうでねえ。今度はひとつ、組打ちと行きやしょう」とセルゲイは、渦まき髪をさっと後ろへさばきながら、真向からいどみかかった。
「いいともさ、さあかかっておいでな」と、つい面白くなったカテリーナ・リヴォーヴナは答えて、両の肘をもちあげた。
セルゲイは若いお内儀に組みつくと、相手のむっちりと盛りあがった胸を、じぶんの赤いルバーシカへ押しつけた。カテリーナ・リヴォーヴナは、わずかに両肩を一揺りゆすり上げようとしたばかりで、セルゲイにまんまと床《ゆか》から釣りあげられ、暫くはそのまま両手でぎゅっと抱きしめられたあげく、引っくり返しの枡の上にふわりとおろされた。
カテリーナ・リヴォーヴナは、得意の腕っぷしを使おうにも、そのひまが結局なかったのだ。赤いどころか、それこそまっ赤になった彼女は、そのまま枡に腰かけて、肩からずれ落ちた外套を引きつくろうと、そっと穀倉から出ていった。いっぽうセルゲイは、威勢のいい咳払いを一つして、こう呼ばわったのである。――
「やいみんな、この間抜野郎め! ぽかんとしてずに、さっさと粉を入れるんだ、うっかり量り込まずにな。塵もつもれば山となる、って言わあ。」
今しがたの事なんか、けろりと忘れたような顔だった。
「あれで中々の女たらしなんでございますよ、あのセリョーシカのやつ!」と、よちよちカテリーナ・リヴォーヴナの後ろからついて行きながら、おさんどんのアクシーニヤは説明するのだった。「あの騙児《かたり》め、上背《うわぜい》といい、お面《めん》といい、男っぷりといい、――ちょいと水際だっておりますからねえ。この女と見当をつけるが早いか、あの極道者、あっという間にもう蕩しこんで、ものにして、果ては身をあやまらせてしまうんですよ。おまけにもう、根が大の浮気もんでしてね、移り気も移り気、――昨日は東、今日は西って調子なんでございますよ!」
「でどうなの、アクシーニヤ……あの……」と、彼女の前に立って歩きながら、若いおかみさんが言った、――「お前さんの子は生きてるかい?」
「生きとりますよ、おかみさん、生きとりますよ――どうして中々! 憎まれっ子、世にはばかるって、この事でございますよ。」
「いったい誰の胤なのさ?」
「いえなに! つまりまあ、父《てて》なし児でございますよ――こうして大勢の男衆にまじっていますもんで――父なし児でございますよ。」
「うちへ来てから長いのかい、あの若い衆?」
「誰でございます? あのセルゲイのことでございますか?」
「そう。」
「おっつけ一月になりましょう。それまでは、コンチョーノフさんの店におりましたが、旦那に追んだされたんでございますよ」――と、そこでアクシーニヤは声をおとして、こう言い添えた、――「世間の噂じゃ、なんでも当のおかみさんと、出来あっていたとやら申しますよ。……いやはやもう、とんだ極道もんでございますよ、大それた奴でございますよ。」
※[#ローマ数字3、1−13−23]
なまぬるい、牛乳のような薄ら明りが、町の上にかかっていた。ジノーヴィー・ボリースィチは、まだ堤防工事から帰ってこなかった。舅のボリース・チモフェーイチも留守だった。古い友達のところへ、名の日の祝いに招ばれていって、夜食は待たずに済ましてくれと言い残したのである。カテリーナ・リヴォーヴナは退屈まぎれに、早目に夕飯をすますと、例の屋根裏の小窓を押しひらき、窓の柱によりかかったまま、ヒマワリの種子を噛んでいた。店の者たちは台所で夜食をすますと、寝場所をもとめて中庭を思い思いに散っていった。車小屋の軒さきを借りる者もある、穀倉をめざす者もある、香ばしい乾草置場へよじ登っていく者もある。一ばん後から台所を出てきたのはセルゲイだった。彼はしばらく中庭をぶらついてから、番犬の鎖を順ぐりに解いてやり、ややしばし口笛を吹いていたが、やがてカテリーナ・リヴォーヴナの窓の下にさしかかると、ひょいと彼女の方をふり仰いで、丁寧におじぎをした。
「今晩は」と、小声でカテリーナ・リヴォーヴナは、屋根裏から声をかけたが、それなり中庭は、まるで無人境のようにひっそりしてしまった。
「奥さん!」――ものの二|分《ふん》もしたかと思うとき、掛金《かけがね》のかかったカテリーナ・リヴォーヴナの部屋の戸の向うで、誰やら言った者がある。
「だれ?」――思わずぎょっとして、カテリーナ・リヴォーヴナはきいた。
「いや、怪しいもんじゃありません。わっしです、セルゲイです」と、番頭が答えた。
「何か用なの、セルゲイ?」
「ちょいとお耳を拝借したいことがあるんです、カテリーナ・リヴォーヴナ。なあに、ほんのつまらない事なんですが、ちょいとそのお願いの筋があるもんでして。ほんの一分ほど、お目通りをねがえませんか。」
カテリーナ・リヴォーヴナは掛金をはずして、セルゲイを入れてやった。
「なんなのさ?」と彼女はきいて、そのまま小窓の方へ離れていった。
「じつはその、カテリーナ・イリヴォーヴナ、お願いというのは、何かちょいと読むような本が、お手もとにないでしょうか。退屈で淋しくって、まったくやりきれないんで。」
「わたしんとこにゃ、セルゲイ、あいにく本なんか一冊もないよ。わたしが第一、読まないもんでね」と、カテリーナ・リヴォーヴナは答えた。
「じっさい淋しいんでねえ」と、セルゲイは訴えるように言う。
「何がそう淋しいんだい!」
「まあ察しておくんなさい、どうして淋しがらずにいられましょう。ご覧のとおり若い身ぞらでさ、しかもここの暮らしと来た日にゃ、どっか修道院か何かにぶち込まれたも同然じゃありませんか。おまけに身の行く先でわかっていることといったら、いずれお墓の下で横になるその日まで、どうやらこうして話相手もない境涯のままで、一生を棒にふることになるらしい――ということだけですしねえ。時にや自棄っぱちにもなりますよ。」
「どうして嫁さんを貰わないのさ?」
「嫁をもらうなんて、奥さん、そう易々と言えるこってすかね? 一たい誰が嫁に来てくれるというんです? あっしはご覧のとおりの小者です。まさか旦那のお嬢さんが来てくれるはずもなし、そうかといって、何せ金がないもんであっしども仲間と来た日にゃみんな、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、奥さんも先刻ご存じのとおり、無教育ものばかりでさあ。そうした家の娘っ子に、ほんとの愛というものを弁えろと言ったところで、どだい無理というもんじゃありませんか! どうです奥さん、これであの連中とお金持との間には、どれほど物の考えように隔たりがあるかということが、お分りでしょうな。早い話が現にあなただっても、こう申しちゃなんですが、じぶんの気持を分ってくれる人間であってくれさえすりゃ、たとえそれがどこのどいつであろうとも、ただもうその男一人に身も心もささげて、明け暮れ慰めもし励ましもしてやろうものをと、そんな気持でいらっしゃるに違いないんだ。ところがどうです、実際はこうしてこの家で、籠の鳥みたいに囲われてらっしゃるじゃありませんか。」
「そう、あたしだって淋しいわ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは思わず口をすべらした。
「まったくこんな暮らしじゃ、奥さん、淋しがるなって言われたって淋しがらずにゃいられませんよ! これじゃたとい、よく世間の奥さんがたがなさるように、よしんばほかに誰かいい人があったにしたところで、一目逢うことだって出来やしませんものねえ。」
「え、なんだって?……そんなことじゃないわ。あたしの言うのはね、ただこれで赤《やや》さんが出来さえすりゃ、それだけでもう気が晴ればれするだろうと思うのさ。」
「ですけどね奥さん、こいだけは申し上げときますがね、赤ちゃんが出来るにしたって、ただのほほんとしてたって駄目なんで、やっぱし何か種がなくちゃ始まりません。ねえ奥さん、こうしてもう長の年つき旦那がたのとこで暮らして、商家のお内儀《ないぎ》というものの明け暮れがどんなものかということも、さんざん見あきるくらい見てきていながら、それでもやっぱしお互い何か胸に思いあたることはないもんでしょうかね? こんな唄がありましたっけ――『心の友がないままに、ふさぎの虫にとり憑かれ』ってね。ところで奥さん、このふさぎの虫っていう奴が、こう申しちゃなんですが、ねえカテリーナ・イリヴォーヴナ、じつはほかならぬこのあっしの胸にしたたかこたえましてね、いっそもうあっしは、匕首でもってぐさりとこの胸からそいつを切りとって、ひと思いにあんたのそのおみ足へ、叩きつけてやりたいと思うほどなんです。そうしたらもうその途端に、百層倍もこの胸のなかが軽くなることでしょうにねえ……」
セルゲイの声はわななきはじめた。
「何さ、そのお前さんの胸のなかだの何だのっていうのは一体? あたしにゃそんなこと、面白くも痒くもありゃしないよ。もういいから、さっさとあっちへおいでな……」
「いいえ、お願いです、奥さん」とセルゲイは総身をわなわなと震わせながら、カテリーナ・リヴォーヴナの方へ一あし踏み出しながら言った。――「あっしは知っています、この眼で見ています、いやそれどころか、はっきりこの胸に感じもし、しみじみお察しもしているんです――あんたの境涯も、あっしに劣らず辛いものだということをね。ね、いいですか、今こそ」と彼は、全くかすれきったせいせい声で、――「今こそ、成るも成らぬも、万事あんたの手の振りよう一つなんですぜ、あんたの首の振りよう一つなんですぜ。」
「何を言いだすんだい? なにをさ? 一たい何しに来たというの? あたし、窓から身を投げるわよ」――とカテリーナ・リヴ
前へ
次へ
全13ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
レスコーフ ニコライ・セミョーノヴィチ の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング