ナはこれを頗る満足に思って、しごく冷静な態度で赤んぼを引渡した。情熱的すぎる女の愛はえてしてそうしたものだが、子どもの父親にたいする彼女の愛は、いささかたりとも子どもの上には移らなかったのである。
とはいえ、彼女にとっては今やこの世に、光明も暗黒も、不幸も幸福も、わびしさも喜びもなかった。彼女にはなんにも分らず、誰ひとり愛するでもなければ、自分を愛する気もしなかった。彼女はただもう囚人隊の出発の日を待ちこがれ、そうなれば可愛いセリョーシカに再会する折もあろうかと思うばかりで、子どものことなんかてんで念頭になかったのだ。
カテリーナ・リヴォーヴナの希望は裏ぎられなかった。重たそうな鎖をひきずり、顔に焼印をおされたセルゲイは、彼女と同じ組になって、監獄の門をあとにしたのである。
一たい人間というものは、どんな忌わしい境遇に陥っても、なんとかしてそれに馴染もうとするものだし、どんな境遇にあっても、できるだけ自分の無けなしの喜びを求める力を失わぬものである。ところがカテリーナ・リヴォーヴナにとっては、順応などという面倒な手数はてんから入らなかった。セルゲイとの再会がかなった――彼さえいてくれれば、徒刑地への道中も幸福に光りかがやくのである。
カテリーナ・リヴォーヴナが縞の麻袋に入れて持って出た金目のものは、ほんの僅かだったし、現金に至っては尚更のこと少なかった。しかもそれをみんな、まだニジニ・ノーヴゴロドにも着かない先に、護送の下士どもにばらまいてしまった、道中をセルゲイと肩をならべて歩かせてもらい、闇の夜には囚人駅舎の寒い廊下の隅っこに彼と抱きあって小一時もいさせてもらう――その目こぼしにあずかるためにである。
ただし、カテリーナ・リヴォーヴナの焼印つきの情夫は、どうしたものかひどくつれない態度を見せるようになった。何か言いかけては、ぶつりと黙りこんでしまう。こっそり逢う瀬を楽しみたいばかりに、彼女が飲まず食わずで我慢して、ともしい財布の底から虎の子の二十五銭玉を呉れてやっているのに、セルゲイは大して嬉しい顔を見せないばかりか、却ってこう言い言いしたものだった。
「なあお前さん。こんな廊下の隅っこへ俺とべたつきに出てくるよか、その下士にやった銭を俺によこしたらいいになあ。」
「たった二十五銭しかやりゃしないのよ、セリョージェンカ」と、カテリーナ・リヴォーヴナが言訳をする。
「二十五銭は金のうちにゃはいらないのかい? その二十五銭という奴を、お前さんだいぶ道々拾っていたっけが([#ここから割り注]訳者註。投げ銭を拾うのである[#ここで割り注終わり])、ばらまいた数だって、もう相当なもんだぜ。」
「だから、セリョージャ、ちょいちょい逢えたじゃないの。」
「ふん、飛んだこった。さんざ辛い目をした挙句に、ちっとやそっと逢えたところでくそ面白くもねえじゃないか! 自分の命《いのち》を呪うのが本当だ、逢曳どころの騒ぎじゃねえぜ。」
「でもセリョージャ、あたしは平気だよ。お前さんに遭えさえすりゃあ。」
「ばかなはなしさ」とセルゲイは答える。
そうした返事を聞くたびに、カテリーナ・リヴォーヴナは思わず唇を、血のにじむほど噛みしめる。さもなければ、ついぞ泣いたことの無い彼女の眼に、無念さ怨めしさの涙が夜更けの逢う瀬の闇にまぎれてあふれ出る。けれど彼女はじっと腹の虫をおさえて、じっと口に蓋をして、われとわが心をあざむこうと努めるのだった。
そんなふうな新しいお互いどうしの関係のまま、二人はニジニ・ノーヴゴロドに着いた。ここで彼らの囚人隊は、やはりシベリヤをめざしてモスクヴァ街道からやって来た別の一隊と落ち合った。
それは大人数の一隊だったが、色々さまざまな連中がどっさりいる中で、婦人班にすこぶる附きの別品《べっぴん》が二人いた。一人はヤロスラーヴリから来たフィオーナという兵隊の女房で、その大柄な身丈といい、ふさふさした黒い渦まき髪といい、悩ましげな鳶色の眼のうえにさながら何か摩訶ふしぎなヴェールのように濃い睫毛がかぶさっているところといい、実になんとも素晴らしい派手な感じの女だった。もう一人は十七になるきりりとした顔だちの金髪娘で、白い肌にはうっすらとバラ色が射し、口もとは小さく締まり、若々しい両の頬にはエクボがあって、金色に光る亜麻色の捲毛が、囚人用の縞入り頭巾のすきから額へちらちらこぼれかかる、といった風情だった。この娘をその隊ではソネートカと呼んでいた。
美人のフィオーナは、柔和なしまりのない気性の女だった。彼女の隊で、その肌を知らない男はまずいないと言っていいくらいだったが、さて首尾よく彼女をせしめたところで大して恐悦がる男もなければ、彼女が次の男に全く同じ首尾をさせるところを見せつけられても、誰ひとり悲観する者もなかった。
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