つけて、ううんと一こえ、いきなり下へ転がり落ちた。迷信も手つだった恐怖のあまり、まったく無我夢中だった。
「ジノーヴィー・ボリースィチ、ジノーヴィー・ボリースィチ!」と、彼は呟きながら、まっさかさまに階段をころげ落ちるのだったが、その拍子にカテリーナ・リヴォーヴナも足をさらわれて、とんだ道づれにされたのである。
「どこにさ?」と彼女がたずねた。
「そら、あっしらの頭のうえを、鉄板を持って飛んで行きやしたぜ。そらそら、また来た! うわあ!」と、セルゲイがさけぶ。――「鳴りだした、また鳴りだした!」
もうその頃は、事情はすこぶるはっきりしていた。つまり大勢の人が手んでに窓を表から叩いているのだ。なかには玄関の戸を押し破ろうとしている者もある。
「馬鹿だね! お起き、みっともない!」と、カテリーナ・リヴォーヴナはどなりつけると、その声の終らぬうちにいっさんにフェージャのところへとって返し、少年の死首をいかにも自然に眠っているような恰好に枕のうえに安置してから、群衆が押しこもうと犇めきあっている玄関の戸を、しっかりした手で明けはなった。
見るもすさまじい光景だった。カテリーナ・リヴォーヴナが、玄関をとり巻いている群衆の頭ごしに見渡すと、高い塀を乗り越え引っ越え一波また一波と、見知らぬ連中が屋敷うちへなだれ込んでくる。往来はまた往来で、人ごえが一つの呻き声になって立っている。
カテリーナ・リヴォーヴナが呆気にとられているうちに、玄関をかこんでいた群衆は彼女をもみくしゃにして、どっと室内へ押し戻してしまった。
※[#ローマ数字12、1−13−55]
ところでこの大騒ぎは、じつはこういうわけだった。――年に十二の大祭日の前夜におこなわれる晩祷には、たかだか郡役所のある町にすぎぬとはいえ、カテリーナ・リヴォーヴナの住んでいるようなかなり大きな工業都市になると、教会という教会はぎっしり人波でうずまるのであったが、しかもそれが、あす祭壇のしつらえられる教会だと、境内は林檎の実ひとつ落ちる隙もなくなってしまう。そこでは通例として、商家の若者から選抜された唱歌隊が、おなじく声楽のアマチュアの中から選ばれた特別の音頭とりに率いられて歌うことになっている。
わが国びとは信心ぶかく、教会がよいがなかなか熱心であるが、したがってまた、それ相応に芸術ずきでもある。けだし教会の諸式に荘厳をつくし、きれいにそろった『たえなる』の唱歌を聴くことは、彼らにとって最も高尚でも最も清らかでもある慰めの一つなのだ。唱歌隊がうたうと聞くと、そこには忽ち町の人口の半ばちかくが押し寄せるのだが、とりわけ熱心なのは商家の若者たちである。番頭衆も子供たちも若い衆も、大小さまざまの工場の職工も、それのみか当の主人たちまでが細君同伴で、われもわれもと一つ教会へ押しかける、それがみんな、せめて表の昇り口にでも割りこめさえしたらいい、いや焼けつくような炎暑の日だろうと、ぴりぴりするような酷寒の日だろうと、窓の下でさえ結構がまんするが、とにかく音程がいかに歌いこなされるか、そして天馬空をゆく如きテノールが気まぐれ千万な前打者《フォルシラーク》をいかにやってのけるかを、しかと聴きとどけずには気の済まぬ連中なのである。
イズマイロフ家の檀那寺には、聖母の宮入りを祝う祭壇があったので、さてこそこの祭日の前の晩、あたかもフェージャの一件がおこなわれた丁度その時刻には、町じゅうの若者がその寺に集まっていたのであったが、やがて騒々しい人波をなして退散しながら、さすがは音に聞こえたテノールだけあって天晴れな歌いぶりだったとか、おなじく有名なバスでありながらどこそこでトチッたとか、口々に評定しあうのだった。
ところで、みんながみんな声楽の批評に夢中になっていたかというと、必らずしもそうではなくて、群集の中にはほかの問題に興味をもった連中もあったのである。
「だがね皆の衆、あのイズマイロフの若女房にも、変てこな噂があるじゃないか」と、イズマイロフの店さきに差しかかろうとするころ口火を切ったのは、ある商人がその蒸汽じかけの製粉所のためペテルブルグから引っ張って来た若い機関士で、――「世間の噂じゃ、あの女はわが家の番頭のセリョーシカと明けても暮れても乳くり合ってるというじゃないか……」
「そいつはもう、隠れもない語り草さ」と青もめんで表を張った毛皮外套の男が応じた。――「現に今晩だって、お寺にや姿を現わさなかったじゃないか。」
「どうしてお寺どころかい? あの淫乱ものと来た日にゃ、すっかり性根が腐っちまって、神さまも、良心も、人目も、何ひとつ怖いものなしだよ。」
「おい見ろよ、あかりがついてるぜ」と機関士が、鎧戸のすきから漏れる光の筋を指しながら言った。
「ひとつ覗いて見るんだね、一た
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