ひらひらと、またはらはらと、こんもり茂った林檎の木からは、咲きたての白い花が、二人のうえにしきりにふり注いでいたが、やがてそれも散りやんでしまった。そうこうするうちに、夏のみじか夜はいつしか移って、高くそびえる穀倉の切りたったような屋根のかげに月は沈み、だんだん朧ろめきながら、斜めに地上を照らしていた。台所の屋根からは、けたたましい猫の二重唱がひびいてきた。やがて、唾きをはく音や、腹だたしげな鼻息がきこえたかと思うと、毛並みをみだした猫が二三匹、屋根に立てかけてある小割板の束をがさつかせて駈けおりてきた。
「さあ、もう行って寝ようじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは毛氈からそろそろ身を起すと、まるで精も根もつきはてたといった調子で、のろのろとそう言った。そして、いつのまにかシュミーズと白いスカートだけになって寝ていたそのままの恰好で、ひっそりとした、まるで死に絶えたようにひっそりした商家の構内を、ふらふら歩いていった。そのあとからセルゲイは、片手に毛氈を、のこる片手には、さっき彼女が興に乗ってぬぎ捨てたブラウスを、かかえてついて行くのだった。
※[#ローマ数字7、1−13−27]
蝋燭を吹き消して、肌着もなにもすっぽり脱ぎすてて、ふかふかした羽根ぶとんへもぐり込むが早いか、カテリーナ・リヴォーヴナは忽ちもう、正体もなく寝こけてしまった。なにしろ、さんざんふざけ抜き、いちゃつき抜いたあげくの果てだから、カテリーナ・リヴォーヴナの眠りの深いことといったら、足もぐっすり寝ていれば、手もぐっすり寝ているといった塩梅だった。ところが、まもなく彼女は、またもやドアがそっとあいて、さっきの猫がどさりと古靴かなんぞのように寝床の上へ落ちた気配を、夢うつつのうちに聞いたのである。
『ほんとに、なんてまあ忌々しい猫だろうねえ?』と、へとへとのカテリーナ・リヴォーヴナは思案するのだった。――『今度はあたし、わざわざ自分のこの手でドアの鍵をかけておいたし、窓もしまっている。だのにまたやって来たわ。よおし、さっさと追ん出しちまおう』と、カテリーナ・リヴォーヴナは起きようとしたが、ねぼけた手や足が言うことをきかない。そのまにも猫は彼女のからだの上を所きらわず歩きまわり、何やら奇妙な鳴き声をたてるのだったが、それがまたもや、まるで人間が口をきいているみたいに聞える。しまいにカテリーナ・リヴォーヴナは、からだじゅうがむずむずして来た。
『いいや、これはもう』と、彼女は考える、――『どうあっても明日になったら、聖水をベッドに振りかけるよりほかに手がないわ。なにしろこうして、尋常一様でない変てこな猫に、見こまれたんだからねえ。』
ところで猫は、彼女の耳の上でニャゴニャゴ鳴きたてていたが、鼻づらをぬっと差し入れると、こんなことを言いだした、――『わしがどうして猫なものかよ! 滅相もないわい! さすがは利口なお前だけあって、まさしくお前の推量たがわず、わしはただの猫ではなくして、実は世間に聞えた商人《あきんど》ボリース・チモフェーイチじゃよ。わしが今このように落ちぶれたのは、ほかでもない、嫁女がわしに食わせおった馳走のおかげで、わしの臓腑がことごとくはじけ破れたからじゃ。それ以来』と、猫はことばをつづけて、――『わしはこの通り形《なり》が小さくなって、わしが実は何者かということのよく分らぬ者の眼には、猫と見えるような仕儀になってしもうた。ところでお前は、その後きげんはどうかな、ええカテリーナ・リヴォーヴナ? 戒律はよう守っておるかな? わしがこうして、わざわざ墓場から出てきたのは、お前がセルゲイ・フィリップィチと二人がかりで亭主の寝床を暖めておる有様を、一目みておきたいからじゃよ。ごろごろごろ』とそこで猫は喉を鳴らして、――『ただ無念なことには、わしの眼は何ひとつ見えんのだ。わしを怖がらんでもいいわ、――それこの通り、お前の馳走のおかげで、わしは目玉までが抜けてしまったわい。な、わしの眼をよくごらん、怖がることはないわい!』
カテリーナ・リヴォーヴナは一目みるなり、ぎゃっとばかり悲鳴をあげた。自分とセルゲイのあいだには、またしても猫が寝そべっていて、しかもその猫の頭ときたら、遺骸になったボリース・チモフェーイチのと寸分たがわぬ大きさだった。おまけに両眼の代りに、一対の炎の輪がついていて、それが四方八方にぐるぐる※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っているではないか!
セルゲイは目をさまして、カテリーナ・リヴォーヴナをなだめると、また眠ってしまった。しかし彼女は、睡気もなにも消しとんでしまい、――それが却って幸いになった。
目をあいたまま横になっていると、とつぜんその耳に、何者かが門を乗り越えて、中庭へはいって来たらしい音がきこえ
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