耳について離れず、ほとほとうんざりしてしまったのだ。さながらその声は、良人にたいしても舅にたいしても、いやそればかりか彼らの曇りない商家の血統にたいしてまで、彼女が何か犯罪をおかしたのだぞと、責めたてているようにひびいた。
 何不足ない裕福の身の上だったとはいえ、舅の家におけるカテリーナ・リヴォーヴナの明け暮れは、世にも辛気くさいものであった。よそへお客に行くことも滅多になかったし、よしんば時たま商人仲間のつきあいで良人と連れだって馬車に乗って出かけるにしても、嬉しい気持は一切しなかった。世間の目は相変らずきびしく、彼女が椅子にかける物ごしから、部屋へ通る歩きつき、椅子を立つ身ぶりに至るまで、一挙一動細大もらさず見張っている。ところがカテリーナ・リヴォーヴナは、あいにく気性のはげしい女だった。おまけに、娘時代を貧乏のうちに送った彼女は、何ごともざっくばらんにぱっぱとやってのける癖がついていた。言われれば二つ返事で、すぐさまバケツ両手に川へ駈けだす。シュミーズ一枚のあられもない姿で、堤のかげで水浴びもする。木戸ごしにヒマワリの実《み》の殻《から》を、通りすがりの若い衆めがけてぶつけもする。そんな育ちの彼女にとって、ここは全く別世界だった。舅と良人は朝はやく床をはなれて、六時にはお茶をたらふく飲んで、すぐさま仕事へ出かけてしまう。のこる彼女は日がな一日ぽつねんとして、部屋から部屋へうろつき※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って一人ですごす。どこを見ても小ざっぱりと清潔だ。どこもかしこもシンとして人っ子ひとりいはしない。みあかしは聖像の前でちらちらと燃え、家じゅうどこにも、生きものの気配ひとつ、人間の声ひとつしない。
 カテリーナ・リヴォーヴナは、人っ気のない部屋から部屋へ、さんざ歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]ったあげく、退屈のあまりあくびが出て、やがて梯子段をのぼって夫婦の寝間へあがって行く。天井の高い、狭い中二階に、ベッドが二つ並べてあるのだ。そこでも暫く腰をおろして、穀倉の前で雇い人たちが麻の目方をかけたり、メリケン粉を袋へ入れたりしている有様を、眺めるともなく眺めているうち、――またしてもあくびの出るのが、彼女には却って嬉しかった。これ幸いとものの小一時間ほど、うとうとと昼寝をして、さて目がさめれば――またしても相も変らぬ退屈さだ。例のロシヤの味気なさ、商家の昼の辛気くささで、いっそ首でもくくった方がましだと、下世話にもいうあれである。カテリーナ・イヴォーヴナは読書の趣味がなかったし、それにだいいち本というしろものが、キーエフ聖者伝一冊のほかには、家じゅうどこを捜したって見つからない始末なのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナが、裕福な舅の家で、不愛想な良人につれそって、五年という年つきを送った明け暮れは、ざっと以上のようなわびしいものだった。かといって誰一人、そうした彼女のわびしさに、些かたりとも注意を向ける者のなかったことも、これまた浮世のならいにはちがいなかった。

      ※[#ローマ数字2、1−13−22]

 カテリーナ・リヴォーヴナが嫁に来て六度目の春のこと、イズマイロフ家の持っている製粉所の堤が決潰した。折も折、まるでわざと狙ったように、製粉所は仕事で満腹のていだったし、おまけに決潰の個所が案外に大きくて、修理もなかなかはかが行かなかった。水かさは、空っぽになった放水溝の土台をさえ下※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る始末で、その水かさを手っとり早く上げようと色々苦心はしてみたが、いつかな成功しなかった。ジノーヴィー・ボリースィチは近隣の在所の人手をのこらず製粉所へ駆りだして、自分も夜ひるわかたず現場に附きっきりだった。町の方の仕事はすっかり老人ひとりで切り盛りすることになって、カテリーナ・リヴォーヴナは来る日も来る日も日がな一日、独りぼっちの味気なさをかこつことになった。はじめのうち彼女には、良人のいないのがいささか手持ぶさたに思われたけど、やがて結句その方がましなような気がしてきた。ひとりの方が気楽になったのである。もともと大して恋しいほどの相手ではなし、おまけに良人が留守なら留守で、とにかく御目付け役が一人がた減ろうというものである。
 ある日カテリーナ・リヴォーヴナは、例の屋根裏の小窓のそばに陣どって、これといって物を考えるでもなく、さかんにあくびを連発していたが、やがての果てにあくびをするのが吾ながら恥ずかしくなった。おもてはなんとも言えぬ上天気だった。ぽかぽかして、明るくって、陽気で、――庭の緑いろに塗った柵のすきからは、小鳥が嬉々として枝から枝へ樹から樹へ、とび移っているすがたが見てとられた。
『ほんとに、なんだってまあこう、あくびばかし出るんだろうねえ?』と
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