ォーヴナは、名状すべからざる恐怖の、むかつくような厭らしい魔力が、ぐいぐい上から伸《の》しかかってくるのを感じながら、そう言い放つと、さっと窓かまちに片手をかけた。
「おっとどっこい、お前さんのその命はな、おいらにとっちゃ掛替えのねえ代物なんだぜ! なんで身投げなんかするんだい?」と、馴れ馴れしい口調でセルゲイはささやくと、若いお内儀を窓から引っぱなして、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「あっ! あっ! 放して」と、小声でカテリーナ・リヴォーヴナはうめくのだったが、雨とふるセルゲイの燃えるような接吻のもとにだんだん気力が失せて、われにもあらず男のがっしりしたからだに、ひしと身を寄せかけるのだった。
 セルゲイはおかみさんを、まるで赤ん坊のように軽々と両手でもちあげると、小暗い片隅へはいこんでいった。
 部屋には沈黙がおとずれた。わずかにそれをみだすものといったら、カテリーナ・リヴォーヴナの寝台の枕もとに掛けてある良人の懐中時計が、律儀に秒をきざむ音だけだった。だがこれも、べつだん邪魔にはならなかった。
「もう帰りな」と、半時間ほどしてからカテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイの顔は見ずに、小鏡の前で自分の髪のみだれを直しながら言った。
「へえ、なんだって今《いんま》じぶん、こっから出ていけるもんかね」と、さも色男然とした声で、セルゲイが言い返した。
「舅さんが戸をすっかり閉めちまうわよ。」
「いやどうもお前さん、可愛らしいことを言うもんだね! 一たいその年まで、どこのお大名とばかりつきあって、女のところへ通う道はただもう戸口しきゃないなんていう、お上品なものの考え方をするんだい? おいらなんざ、お前さんとこへ来るにしろ帰るにしろ、どこにだって戸口はあらあな」――と若者は答えて、差掛を支えている柱の列を、ずうっと一わたり指さしてみせた。

      ※[#ローマ数字4、1−13−24]

 ジノーヴィー・ボリースィチは、それからまだ一週間ほど家をあけていたので、そのあいだじゅうお内儀《かみ》さんは、夜ごと宵ごと、すっかり明けはなれる時刻まで、セルゲイと乳くりあっていた。
 その夜ごとに、ジノーヴィー・ボリースィチの寝間では、舅さんの穴倉からこっそり持ちだした酒も飲み放題なら、舌のとろけそうな甘いものも食べ放題、おかみさんのまるでお砂糖みたいな口にはキスし放題、ふかふかした枕のうえには渦をまくみどりの黒髪がみだれ放題、という体たらくだった。だがしかし、道はかならずしも常に坦々たる街道ばかりとは限らない。川どめもあれば崖くずれもある。
 ある夜ボリース・チモフェーイチは寝そびれてしまった。そこで老人は、まだら染めの更紗のルバーシカ姿で、森閑とした家のなかを、あてもなくうろついた。窓へ寄って外をながめる。また次の窓へ寄ってみる。そのうち、ふと見ると、嫁女の部屋の窓の下を柱づたいに、こっそりあたりを憚りながら、若い衆セルゲイの赤シャツがおりてくる。さてこそ珍事! ボリース・チモフェーイチはおもてへ躍りだしざま、若い衆の両足をしっかと捉まえた。相手はくるりと振りむいて、力まかせ横びんたを喰らわそうと身がまえたが、荒だてては事面倒と思いかえした。
「きりきり白状するんだ」と、ボリース・チモフェーイチは言った、「てめえ、どこへ行ってきくさった、ここな大ぬすっとめが?」
「どこさ行ってきようが来まいが」と、セルゲイはいけしゃあしゃあと、「旦那、あっしはもうそこにいやしませんや、ねえボリース・チモフェーイチ」と切って返す。
「嫁女のところに泊りおったのか?」
「さあねえ、旦那。泊った場所なら、それもあっしは確かに知っちゃおりますがね。ところで、これは念のため申しあげときますがね、ボリース・チモフェーイチ、いいですかい、――一たん引っくら返った水は、元へ戻りゃしませんとさ。まあ一つ、先祖代々のノレンに疵のつかないように、せいぜい御用心を願いやすぜ。さてそこで、あっしをどうなさるおつもりかね? どうしたらおなかの虫が収まるんですかい?」
「ええ、この毒へびめが、鞭を五百も喰らわせてやろうわい」とボリース・チモフェーイチ。
「こっちの越度《おちど》だ――どうなりと存分に願いやしょう」と、若者はあっさり折れて出て、「さあ、どこへなりとお伴しますぜ。そして好きなだけ、あっしの血をすすりなさるがいいさ。」
 ボリース・チモフェーイチは、セルゲイを自分の小さな石倉へ引っぱっていって、革むちでもって、自分がへとへとになるまで打ちすえた。セルゲイは呻きごえ一つ立てなかったが、その代り自分のルバーシカの片袖を半分ほど、歯でぼろぼろに咬みしだいてしまった。
 ずく鉄みたいにまっ赤に腫れあがった背中が、なんとか元どおりに直るまでのあいだ、ボリース・チモフェーイチはセルゲイに
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