妙な伎倆にふさったもので、つまり大した評判だったわけだが、気の毒なことにこの美術家は、芸術的創作の自由を尊重しない粗野な群衆の犠牲になって、身をほろぼしてしまった。石責めにあって殺されたのだったが、それというのも彼が、町じゅうの人の膏血をしぼり上げたイカサマ銀行家の死顔に、「神と物語る至福の表情」を与えたからであった。そのイカサマ師のおかげで幸福になった遺族たちは、そんな註文を出して故人への感謝の念をあらわそうとしたのだが、その註文の芸術的執行人にとっては、それが死に値いしたというわけである。……
これと全く同じ非凡な芸術家の部類にぞくする名人が、実はわがロシヤにもいた。
※[#ローマ数字2、1−13−22]
わたしの弟の乳母をしていたのは、脊の高い、しなびた、それでいて頗る姿のいい婆さんで、リュボーフィ・オニーシモヴナという名前だった。この婆さんはもと、カミョンスキイ伯爵の持物だった旧オリョール劇場の女優をしていた女で、わたしがこれから話そうという一部始終は、おなじくオリョールの町で、わたしの少年時代に起ったことなのである。
弟はわたしより七つ年下だ。したがって弟が二歳で、リュボーフィ・オニーシモヴナの手に抱かれていた頃、わたしはもう満九歳ほどになっていたので、してもらう話がすらすら呑みこめたわけである。
その頃のリュボーフィ・オニーシモヴナは、まだ大して老けこんではおらず、まるで月のように色白だった。目鼻だちはほっそりと優しく、脊の高いそのからだはまっ直ぐに伸びきって何ともいえぬいい恰好で、まるで若い娘のようだった。
母や叔母は、つくづくその様子を眺めながら、若い頃にはさだめし美人だったに違いないと、言い言いしたものである。
彼女はじつに正直で、じつに柔和で、情あいのじつに濃やかな女だった。人生の悲劇的な面が好きで、しかも……時たまはかなり酒をやった。
彼女はわれわれ兄弟をよく三位一体寺の墓地へ散歩に連れて行ってくれたが、そこではいつも、古びた十字架のついたとある質素な墓のうえに腰かけて、わたしに何か話を聞かせてくれたものである。
わたしが彼女から「かもじの美術家」の話を聞いたのも、やはりそこでのことだった。
※[#ローマ数字3、1−13−23]
その男は、うちの乳母の劇場なかまであった。違うところといえばただ、
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