るかを顕微鏡で見ようとした。しかし今私はここでその数字やグラフを振廻そうというのではない。またこのような事は現象が非常に複雑で、一朝一夕には真相はわからない。ただ私が今までおぼろげに知った事の一つはこうである。――西洋の発声法は咽喉を一種の楽器にする事である。性質がよほど楽器の音に似ている。ニッポンの唄は結局ニッポン語の朗読や談話の一種である。普通の話の声に近い。
 流行唄の文句は都会の若い生活の裏面をよく面白く歌っている。文句がなかなか巧みである。「怒るのがあたりまえでしょう」だとか「×××素肌のはずかしさ」だとか、とにかく何となく人の気持に訴えるように、うまく出来ている。正に小唄に唄うのに適している。文句がよくわかることは絶対に必要である。ニッポンの流行唄が何も知らない芸者たちにニッポン語らしく唄われることには、十分意味があると私は思う。
 しかしまだ一つ難題が残っている。――ではニッポン風のふしというものがあるか? もちろん、ただふしだけを取るならば、ニッポン風のふしというものがあるにきまっている。長唄のふし、清元のふし、謡曲のふし、ニッポン各地の民謡のふしというようなものである
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